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スティールヘッド編  --第113話--

歓喜のフラット

釣り始めて30分ほど経過し、私はプールのめぼしい部分にフライを流し切った。残るは渕尻しかない。しかしアッパー・アイランド・プールはその渕尻が広く、しかも水面の様子から判るように、大きな石が数多く沈んでいた。私は更にラインを伸ばし、ダーハム・レンジャーを対岸側に投げ込むと、その開きをゆっくりと横切らせた。流れが緩くなっただけでなく底石が大きいため、このプールを釣り始めてから初めて、フライが根掛かりするのではと気になり始めた時、スウィングしていたラインが止まってしまった。
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スティールヘッドとのファイトが始まる。

私はフラットビームをしっかり掴むと、ロッドを高く差し上げラインを持ち上げた。フラットビームは直ぐ水面を離れたが、フライラインは後端が少しばかり見えるだけだった。

私は更にラインを強く張った。それと同時に35m先の水面で大きな水柱が立った。ロッドに大きな振動が伝わり、竿先が大きく揺れた。魚だ。そう思った瞬間、背後にいたブルースが「スティールヘッド」と大声で叫んだ。「来た! 遂に来たぞ!!」
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相手の出方が解らないため、負けないことだけを考える。

その喜びに包まれたのはほんの数秒であった。私は急流の中に立ち込んでいる。スティールヘッドは35m下流、しかも渕尻にいる。走ったら海に着くまで止まらないと云われている魚とこんな状況で対峙するなんて。

もし鏡をみたら私は顔面蒼白だっただろう。この状況で魚が下流へ走ったら、私はとても追いていけない。何度も話に聞かされたように、リールに巻いてあるラインが全て出たところで万事休すだ。
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引き寄せるの成功したと思った時、突然反転し下流に走った。

この魚を決して下流に走らせてはならない。何とかこのプールの中で勝負しなければ。私は1mほど岸寄りに移動して足場を固めると、思い切りラインを張って魚を渕尻から引き離そうとした。魚は大きく身体を振って激しく抵抗した。ロッドと共に私の身体も揺らいだが、2m近くのラインをリールに巻き取ることに成功した。

このまま続ければ何とかなる。そう思った直後だった。魚はその場で厭がって抵抗するのを止め、真っ直ぐ下流へ走った。ロッドが限界まで曲がったところで、私は押さえていたリールから手を放した。放さなければリーダーが切れるか、ロッドが折れるか、何れにせよ何処かが壊れる。しかし手を離した瞬間、リールが今まで聞いたこともない悲鳴を上げ、逆転を続けた。
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長い距離下って漸く魚に追いつく。

やられた

間もなくラインが無くなって一巻の終わりだ。フラットビームは瞬く間に50m近く飛び出していた。私はリールがバックラッシュを起こさないようスプールに軽く手を触れてその時が来るのを覚悟した。ところがそこでラインが止まった。魚は下流の瀬を下りきり、緩い流れに入ったところで動かなくなった。私はまるで腫れ物に触るように恐る恐るリールを巻き始め、ラインが緩まないように気をつけながら下流へ向かった。

降り口の直ぐ側まで下って来た時、フライラインが見えた。そのフライラインもロッドの先に入った。魚は右に左に大きく揺れながら抵抗したが、再び走る気配は感じられなかった。私はそのままラインを巻き続けた。遂にリーダーを残すのみとなり、目の前にスティールヘッドが現れた。流れの中で横を向くたびにピンク色の帯が見える。私はリーダーを摘むと、静かにスティールヘッドを抱き上げた。
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精悍な表情のスティールヘッド。美しい魚だ。

美しい魚だった。その口元に付いていたダーハム・レンジャーも美しかった。何枚も写真を撮りたかったが、私は魚が弱って大人しくなっていることを知り、フックを外し流れに戻した。スティールヘッドはゆっくりと下流へ向かい波間に消えた。その姿を見送ると、私はダーハム・レンジャーを流れに濯いでからフックキーパーに掛け、後を振り返った。アッパー・アイランド・プールは30分前とすっかり変わって見えた。よそよそしさが消え、その開きは生気に満ちていた。
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フライで釣った初めてのスティールヘッド。感激の瞬間。

急がなければ

私はフライで初めてスティールヘッドを釣り上げた余韻に浸る間もなく、急いで元の場所にとって返した。対岸に大きなメイプル・ツリーがある。その正面に立つとプールの開きをくまなく狙える。私はそこまで進んで下流に向き直ると、フックキーパーに留めたダーハム・レンジャーを流れに入れ、再びラインを引き出した。

-- つづく --
2014年10月19日  沢田 賢一郎