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桂川編  --第100話--

対岸

5月の連休が過ぎた。私は予定通り桂川を主要なターゲットと位置づけ、何処に出掛けても可能な限り帰り道に寄るようにした。前年と違いこの年は気候も穏やかで、夕方はいつもそよ風が吹く絶好の条件に恵まれた。そのせいか魚はまともな時間に、これまたまともな場所で堂々とライズを繰り返した。この1986年はその2年前に完成したグレートセッジが最初から絶好調で、ライズしたヤマメのほとんど全てが何の疑いもなくそれを捕らえた。しかし天国は長く続かない。6月に入るとヤマメらしきライズはめっきり減ってしまった。魚が減ったのか、それとも移動してしまったのか、良く判らないまま時が過ぎていった。
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はち切れんばかりに育ったアマゴ。ヤマメに比べ、アマゴは更に体高が高かった。グレートセッジはシーズン初めからヤマメを釣りまくった。

それは6月に入って間もない日だった。私は病院の少し下流に出来た新しい降り口を伝って河原に降りた。水位は平常、蒸し暑く、時折吹く風が爽やかに感じられる日だった。私が河原に降りたとき、下流にある流れ込みの近くに4人の釣り人の姿が見えた。両岸に2人ずつ、ロッドを抱えて立っていた。夕方ではあったがライズが始まるには未だ1時間以上あるはずだ。

当時、フライフィッシャーマンの間ではイブニングライズを釣ることがすっかり定着し、昼間の釣りと分けて考えるようになっていた。殊に開けた里川を釣る場合、イブニングライズは一日の釣りのクライマックスであり、大型魚を釣る最大のチャンスであることは周知の事実であった。しかしそれが次第にエスカレートしてきて、ライズが始まる何時間も前から、めぼしい場所の前で陣取りする姿が目立つようになってきた。

ライズに対し確実にフライを投げたいのはやまやまだが、ライズに遭遇できないかも知れない危険を冒してまで、目当てのポイントの前で何時間もじっと待つのは、全く私の性に合わなかったから、私は当時の日課として先ず上流を目指した。良い場所があれば直ぐに釣り始めるし、怪しげに見える場所があればそこをマークしておくためだった。

降り口の数百メートル上流に発電所の放水口があった。そこに到達するには2度川を渡らなければならない。流れがきついので少しでも増水したら諦めなければならなかったが、幸いなことに水位は心配するほど高くなかった。
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力尽きて浮上したブラウントラウト。

その日、私は大物に備えて9フィート1インチのプリミエールを用意していた。7番のラインには前年の1985年に完成したスーパーテックリーダー、9フィート2Xの先端を少しカットして繋げ、その先に4番のダンケルドを結んでいた。私は幾つものポイントをじっくり観察しながら放水口まで辿り着いた。季節も天気も水の状況も何一つ不足なかった。今日は何かが起こるに違いない。長いこと釣りをしていても、そんな確信を持てる日はそう多くない。

放水口の近くは両岸が屹立していて陽当たりが悪かった。夕方になると開けた下流域より10分ほど早く暗くなる。セッジが飛び始めるのも、ライズが起こるのもそれだけ早い。既に数匹のセッジが飛び始めていた。頭上を見上げると崖沿いに更に多くのセッジが舞っていた。私は周囲に気を配りながら殊更ゆっくりと川を下った。
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力持ちのブラウントラウトも、スタミナ切れを起こした後は大人しくなる。

白い花

両岸が更に狭まり流れが絞れて重くなった場所に差し掛かった。その直ぐ下流に魅力的な淵があることから、私は静かに、そして慎重に流れを渡り左岸に移った。その淵は幅が10mにも満たないが、右岸側にある巨岩が屋根のように覆い被さっていて、その奥は既に暗かった。下流から飛んできたセッジが次々にその暗闇に吸い込まれていく。この場所に来るようになってから何度も見た光景だが、不思議なことにその淵でライズを見たこともなければ、当たりを感じたこともなかった。少し下流に実績のあるポイントが数カ所点在していた。私はそちらが気になり、フライを投げることなく静かにその場を離れた。

何か後ろ髪を引かれるような思いに駆られて振り返ったとき、その岩の下の暗がりに白い花が咲いたように見えた。もしやと見つめ直した時、もう一度白い花が咲いた。

頭に血が上り、同時に私の心臓が早鐘を打ち始めた。ライズだ。かなりのサイズの魚がセッジに襲いかかっている。私は姿勢を低くしてその淵に戻り、ライズの正面に構えた。距離は僅か7、8mしかない。ラインを引き出すリールの音を聞いて少し落ち着いたとき、目の前で派手な飛沫が上がった。私は左手に持っていたダンケルドを放すと、膝をついたままロールキャストでフライを張り出した岩の奥に送り込んだ。2回、3回と繰り返したとき、僅かに上流側で再び水飛沫が上がった。私はすかさずそこに向かってフライを送り込んだ。数回繰り返したが反応がない。
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同じ時期に放流された魚か。ブラウントラウトはサイズも顔つきも、その太り具合もよく似たものが
多かった。

その時、2mほど下流側で水面が炸裂した。彼奴は岩の下から出る気がない。この場所から釣っている限り、フライは落下と同時に下流へ流されてしまう。セッジに夢中な彼奴にはゴミとしか映らないだろう。私は静かに後ずさりすると上流側へ移った。ここからならライズが私の斜め下流になる。しかも後ろが開くからロールキャストする必要がない。私は不足分のラインを2mほど引き出すと、左サイドにロッドを振ってラインを岩の下の暗がりに伸ばした。同時にロッドの先を僅かに持ち上げ、着水と同時にラインを張った。

一瞬の間をおいて「グン」と言ったショックがロッドに伝わり、全身を駆け巡った。百発百中フッキング可能な、あの重くずっしりとした当たりだ。ロッドを持ち上げると同時に、獣のようなものが暗闇の奥へ突進した。私はゆっくりと川岸から離れ、魚のほぼ真横に移った。するとその魚は川底をゆっくり上流へ向かい始めた。身体を揺する度にロッドが大きく曲がり、竿先が水面に突き刺さりそうになった。重い。この重さはとてもヤマメとは思えない。しかしニジマスならもっと走るはずだ。一体何だろう。
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この年、ブラウントラウトにはダンケルドの活躍が目立った。

一刻も早く正体を見たい。しかしすぐさま水面に持ち上げられる相手でなかった。それどころか川底を移動する度、リーダーが根擦れを起こすのではないかと気が気でなかった。5分以上経って、その魚は急に大人しくなった。私は無理をせずゆっくりと対岸から引き離し、手前側の浅瀬に誘導した。岩の下は暗かったが、私の足下は未だ充分に明るかった。その残照の中にあの黒い星をまとったベージュ色の姿が浮かび上がった。ブラウンだ、やはりブラウンだった。

私はリーダーを掴んでブラウンを水際まで誘導した。あれほどロッドを曲げ続けた力持ちと思えないくらい、ブラウンは大人しくしていた。頭が小さくて体高があり、如何にも育ちの良さそうな優しい顔をしていた。体長は50cm近くあったが、恐らく2歳ではないかと思えた。

それにしてもブラウンの釣れ方は常に共通するものがあった。釣れるのはセッジのハッチが盛んな時。場所は流心が通る岸寄り、それもほとんどが対岸側でオーバーハングしていた。そのポイントの上に何らかの障害物がある。薮か張り出した木の枝が多い。忍野を含めて、以上のような条件の場所で私は多くのブラウンを釣ってきた。ブラウンが好むポイントと言って差し支えないだろう。

-- つづく --
2006年11月09日  沢田 賢一郎