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桂川編  --第105話--
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岸際

7月末、梅雨が明けてから2週間が経ち、連日のように猛暑が続いていた。このところイブニングライズの釣りは芳しくなく、ライズも明らかに小魚と解るものしかなかった。その日、私は性懲りもなく夕方の川茂に来ていた。いつもなら薄暗くなる頃に涼しくなるのだが、時折、生暖かいのを通り越して熱風が吹いていた。水位が下がったこともあって、川から魚の気配が消えていた。

私がそれを承知でやって来たのは、どうしても釣り上げ、その正体を確かめたい魚が2匹居たからだ。1匹は一ヶ月近く前にヒレだけ現した岸際の魚。あの魚は前の週も姿を現したが、釣り上げることができなかった。もう一匹は川幅が広がった所の対岸側に居る魚で、ネズミ魚と呼んだ奇妙な魚だった。その魚が狙いを付けるには余りに小さいことは解っていた。それなのに標的としたのには訳があった。それは当たりがある場所がいつも対岸すれすれで、明るいうちはだめ。フライがほんの少し岸から離れても食べなかったからだ。こちらの方は出掛ける度に当たりがあるにも拘わらず、針掛かりしないでいた。幾ら小さいと云っても、何回も当たりがあるのに釣れないのは悔しい。
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濃紺の地に無数の黒点を散りばめた背中が、波の中に現れた。

私は半ば意地になって、その2匹に的を絞って準備をしてきた。こちら側と対岸際、正反対だがどちらも岸すれすれの浅い場所だ。キャスティングが正確にでき、しかもフライから先に水に落とせるくらいラインのターンをコントロールできるロッドとして、私は再び9フィート半のアバディーンを選んだ。
ロッドが長いと高い位置からフライを投げらる。対岸の場合はドラッグが掛かるのを遅くするのに有利だし、こちら岸は水に浸かるラインやリーダーの長さを減らすことができる。

私は更にターン性能をよりよくするため、7フィート半のリーダーを1フィート近く詰め、その先に8番のピーコック・アンド・グリーンを一本だけ結んだ。ピーコック・アンド・グリーンを選んだ理由は、ボディにピーコックハール、テールにピーコックソードと、共に水中で揺らめくマテリアルを使っていたからだ。このところ夕方になってもセッジが少ししか飛ばず、それを捕らえるようなライズがないことから、セッジの成虫らしきパターンより良いように思えた。
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引き締まった身体に尖ったヒレ。小型のスティールヘッドのようだ。

メジャーリング

対岸の魚が何処にいるか、それはもうすっかり解っていた。しかしよほど臆病なのだろう、明るいうちは出てこない。私はそのネズミ魚を驚かさないよう、彼の居場所の少し下流で対岸目がけてフライを投げてみた。そしてフライが対岸の岸際から30cm以内に落ちるよう、最適なラインの長さを決めた。次に私はラインの先端がロッドの後端と一致するまでラインを手繰った。その上でここからスタートし、左手のストロークの何回分を送り出せば、ラインが所定の長さまで伸びるか調べた。これはメジャーリングと言って、ラインの長さを調節する際、目分量に頼らず正確に計るテクニックだ。私はほんの少し前までキャスティング競技を行っていたから、桂川の川幅程度の距離なら、ラインの長さの誤差を10cm以内に収められた。

準備は整った。私は50mほど上流へ歩き、そこからゆっくりと釣り始めた。そのまま釣り下れば、丁度良い時間に目指すポイントの正面に降りて来られる筈だ。釣り始めて間もなく辺りは夕方の気配に包まれた。けれどもセッジは数えられるくらいしか見えない。一ヶ月前の虫吹雪が夢のようだった。
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ピーコック・アンド・グリーン。イブニングだけでなく、昼間の活躍も目覚ましかった。

細かいハヤのような当たりが一回あっただけで、私は対岸の直ぐ下流にあるネズミ魚の住み家が見える所まで降りてきた。対岸は背の低い灌木に覆われていて、その下枝が水面に向かって伸びている。ネズミ魚はその枝の直ぐ下にいる筈だ。私はあらかじめ決めておいた位置に立ち、ラインを計った。昼間なら何でもないことでも、夕方になると距離感が狂う。私は念のためラインを所定の長さより50cm短くして投げ始めた。

伸びるラインは見えるが、フライが落ちた場所はよく見えない。投げた方向に狂いはないはずだが、当たりはなかった。2投目は20cm伸ばした。3投目は更に20cm伸ばした。それでもフライは何事もなく流れて来た。私はもう一度20cm伸ばし、慎重に投げた。フライは今度こそ対岸ぎりぎりに落ちたはずと思った瞬間、ブルブルとせわしい当たりがあった。合わせるのと同時に何かが飛んできて竿先の辺りにボチャンと落ちた。大急ぎでラインを手繰ると、足下で小さな魚が暴れている。私はそのままラインを手繰り続け、ロッドを起こしてその魚を目の前にぶら下げた。それは色の黒い20cm足らずのニジマスだった。

どうしてこんな季節にこんな小さいニジマスが居たのだろう。流心は怖くて入れなかったのだろうか。私はこの魚がムキになって追いかけたネズミ魚に間違いないか調べるため、ラインを更に20cmほど伸ばして同じ場所に投げてみた。直後におかしな感触が伝わってきた。やはり対岸を釣ったためだった。その魚はネズミ魚に間違いない。予想通りとても小さい魚だったが、問題が一つ解決できてことで、私は随分と気が晴れた。
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ロケットのように走るのは50cm前後の魚が多い。

さて残るもう一方だ。あの岸際のハンターは前回もかなり暗くなってから出て来た。恐らく暗さと彼奴が狩っている餌との間に何か関係があるのだろう。私は前回彼奴が現れた付近で待つことにした。5分も経たないうちに彼奴は現れた。私の立っていた場所から5mほど下流、岸際で水深が10cmくらいしかない所だった。まるでイワナかウナギが水際でのたうち回っているようで、明らかに腹を川底に擦って泳いでいた。私が近寄った時、彼奴は未だそこにいたが、余りに浅いのと、付近に打ち上げられた金魚藻が帯状に転がっていて、フライを投げることができなかった。

前回もそうだったが、彼奴は下流から上ってくるようだった。最初に姿を現すと、次は必ずと言って良いほど少し上流側で餌をあさった。私はもう一度最初の場所に戻り、ラインを思い切り短くして待ち構えた。待つほどもなく彼奴が現れた。私が待ち構えていた場所の正面、ロッドで叩けそうに思える距離だ。私は直ぐにフライを波の中に叩き込んだ。同時にゆっくりとロッドを起こしてフライを泳がせた。彼奴は同じ場所でもう一回波紋を広げた。その波紋の中に黒い背中が見えた。
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ガクンと鋭い当たりを感じ、私はロッドを真横に払った。その途端リールが素晴らしい勢いで逆転し、ラインが下流へ向かって一直線に伸びていった。暫く走った所で一度止まるかに見えたが、再び走った。5、6秒経った時、ロッドに細かい震動が伝わった。同時にバッキングラインががロッドから飛び出していくのが見えた。その直後、バーンという音と共に下流で大きな水飛沫が上がった。更に続けて2回上がったところで、彼奴はやっと止まった。もう一度同じ距離を走られたらバッキングが足りない。私は彼奴の力が回復しないうちにラインを巻き取りに掛かった。

フライラインを半ば近くまで巻き取った時、彼奴は再び下流に走った。しかしもうバッキングを引き出すには至らなかった。数分後、私の足下に息切れして大人しくなった魚がいた。背中が濃い青色で、ヒレがピンと尖ったニジマスだった。私が針を外そうとして筋肉質の胴体を押さえつけた時、彼奴は口から何か吐き出した。満腹の魚を釣ると、それまで食べていた餌を吐き出すことがよくある。私はそれを確かめるためにライトを点け、思わずギヤーと声を出した。ライトに浮かび上がったのは黒川虫とヒルの固まりだった。

-- つづく --
2007年04月10日  沢田 賢一郎