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桂川編  --第93話--

桂川

フライフィッシングを始めてからかなりの年月、私は大部分の時間を渓流で過ごした。私にとってこの凡そ20年間は渓流の時代というべき期間だった。当時、足繁く通っていた川の中に、山岳渓流と少しばかり趣の異なる川が一本あった。それが忍野であった。忍野は富士山の豊富な地下水を水源とするため、外界が真冬でも水中はいつも春だった。春先、気温が氷点下に下がりロッドのガイドが凍るなかで、魚が水面の餌を採るためにライズしていた。

1970年代に入った頃、関東地方の渓流の多くが3月の初めに解禁となった。待ちに待った解禁と言っても、少しばかり山に入っただけでそこはまだ冬である。多くの川がドライフライを投げても魚が出てくるような状況ではなかった。そのため私は解禁から専ら忍野に通った。暫く通う内、忍野らしい見事な魚を釣ろうと思ったら、雨で増水でもしない限り昼間に釣りをしても無駄なことが判った。天気が良い日、私は午後になってから出発し、夕方の忍野を目指した。
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解禁という言葉は釣り人の理性を奪う。もしやと思って出掛けても、そこには厳しい現実が待っている。それでも確かめずにいられない。

解禁日から雪の積もった忍野に通ったというのに、その下流の桂川には暫く目が向かなかった。後から思えば不思議であったが、その当時の私には十分な理由があった。一つは忍野という川の特殊性にあった。日本には珍しく大規模な湧水を水源とする川で、写真で見る限りイングランドのチョークストリームのようであった。水面は波立たず、池のように静かであったが、流速は充分にあり、川底は美しい藻で覆われていた。しかもその川には憧れのブラウントラウトが住んでいたのだ。それだけで忍野という川が全く特殊な環境という気がしていた。3月に魚がライズするのは水温の高さだけでなく、その特殊性に依ることが大きいと思っていた。

確かに忍野は特殊ではあったが、豊富な湧水が流れ込む川は他にもあった。その一つが直ぐ下流の桂川であったのに、気が付かなかった。いや気が付こうとしなかった。

もう一つの理由は当時の(今日でも基本的に同じようなものだが)桂川が、それ以外の渓流に比べ悲惨な状況だったことが大きい。河原は幾らもなく、川岸の大部分が護岸され、至る所ゴミの山だった。流域を調べなければと何度も出向いたが、その都度、落胆して帰るだけだった。そのような訳で初めて忍野を知ってから数年間、3月は忍野を釣るだけであった。朝から他の川で釣りをしたかったのだが、当時はそれを可能にするだけの経験も知識も持ち合わせていなかった。
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1972年5月、丹沢山系の谷を釣る。目まぐるしく変化する谷が楽しくて、地図を頼りに片っ端から分け入った。

やがて山間の桜が開く頃になると、渓流はにわかに活気づく。そうなると私は朝から午後まで谷を歩き回り、変化に富んだ流れにドライフライを浮かべてヤマメとイワナを釣った。その季節、多くの渓流は暖かい昼間の方が魚が良く出てきた。一方忍野は夕方からの釣り場だったから、丹沢、八ヶ岳、南アルプスや奥多摩の渓流を午後まで釣った後、忍野に向かうのが定番となった。

渓流と忍野の共通点と言えば、どちらも川と言うだけだ。渓流はとても賑やかで変化に富んでいたが、忍野は静寂が支配する川だった。場所によっては物音一つしない。目の前の水が流れているのが不思議に思えるほど静かであった。しかし機が熟すると、その静けさを破って大物がライズを始め、川は一瞬の内に全く違う顔を見せる。私はのどがからからになるほど緊張しながら、そのライズ目がけてウェットフライを投げ込んだ。

一日に両極端の性格を持つ釣りを組み合わせたのだ。どちらも良かった時など、こんなに楽しいことがあって良いものかと思うほどであった。
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1975年9月。一年に数回しか来なかったが、日光の湯川は忍野と共に数少ないチョークストリームとして貴重な川だった。

風花

1972年の4月の初めだったと記憶している。私はいつものように午後から忍野に向かった。夕方までに着けば良いのだが、それまで何もせずに過ごすのは辛い。それに万一遅れでもしようものなら一日の釣りがふいになってしまう。気がせいてついつい早めに出発するものだから、その日も富士吉田に着いたとき、夕方まで未だ2時間もあった。

私は忍野へ向かう曲がり角の少し手前を左に折れ、明見の町外れへ向かった。しばらく進むと道路は両岸がすっかり護岸された川を渡る。そこが桂川だった。ここから忍野まで10分もあれば充分に着く。忍野に早く着き過ぎたとき、私は夕方まで時間をつぶすためこの付近を何度か釣ったことがあった。但しこれまで小型のヤマメが釣れる場所という認識しかなく、いつも富士山に沈む夕日と時計を見ながら釣りをしていた。

私は土手の脇に車を止め、護岸の上に立った。記憶にあるのと随分違った景色が目の前に広がっていた。これまで来たのは全て5月以降だったから、護岸の上は桜の花とケヤキの新緑、水際は色鮮やかなクレソンに覆われ、その上をセキレイとツバメが飛び交っていた。しかしいま目の前に見えるのは暗い護岸と川底に広がる黒い溶岩だけ。僅かばかりの川岸に枯れた芦が折り重なり、時折通り過ぎる冷たい風に震えていた。一ヶ月早いだけで、生き物の気配さえ無いように見える。
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1977年7月。 当時南アルプスの谷は私のホームグラウンドであった。帰りに忍野に寄るのが便利だったことも、その理由の一つ。

私は長時間の釣りでないことを考え、直ぐ後に忍野で使うロッドを繋いだ。長さ8フィート、それに5番のラインを通し終えると両手を広げ、忍野で使うより細い1.5号の糸を一尋結んだ。当時、アメリカからテーパーリーダーというものが入り始めていたが、私は余りの弱さにそれをとても使う気になれず、テーパーなしの糸をそのまま結んでいた。リーダーの先には苦労して巻き上げたドライフライ、12番のローヤルコーチマンを縛り付けた。

土手の下を向いたまま糸を結んでいたせいか、支度が終わる頃に辺りが暗くなったような気がした。そのとき首筋に冷たいものが触れた。振り返ると風花が舞っている。富士山にかかった灰色の雲から細かい雪が舞い降りていた。その雲の西は晴れていたから、30分も経たないうちに止むように見えた。

この明見付近を流れる桂川は全面に亘って護岸されていた。川底の溶岩が渓流のような流れを作っているから良いようなものの、そうでなければ只の水路でしかない。護岸の高さは3m近くあり上り下りもままならないから、護岸の上から釣るしかなかった。要するに環境は最悪であった。
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1975年4月。栃木県の箒川を釣る。この季節、浅くて陽当たりの良い里川は貴重な存在だった。

私は橋の上手に向かった。そこに小さな堰堤があり、その付近で最も広いポイントを造っていた。私は過去にそのプールで何匹かのヤマメを釣ったことがあったから、季節外れに釣るなら先ずそこからと決めていた。川底の溶岩が黒いから、水中の様子は全く見えない。暗い水面に白い雪だけが溶け込んでいた。私は土手の上からフライを投げた。ローヤルコーチマンのウィングが一粒の雪のように見えた。フライが水面を滑り出した時、小さな水飛沫とともに消えた。すっかり不意をつかれ、私は慌ててロッドを上げたが、フライだけが戻ってきた。

魚が出た。空合わせに終わったことより、魚がいきなり飛び出したことが驚きだった。こんなに早い季節でも魚が出てくるなんて。私は呼吸を整えると慎重にフライを投げ直した。ローヤルコーチマンは同じように暗い水面を滑り始めた。そして1mも流れないうちに再び飛沫とともに消えた。待ち構えていた私はほぼ同時に合わせることが出来たが、またもやフライだけが戻ってきた。
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鮮やかな緑のクレソンとサビのないヤマメ。夏が近いことを実感する。

「悔しい」

しかしそれが更に5回以上も続いた時、私は訳が解らず半ば途方に暮れていた。不思議だったのはそれだけでなかった。あちこちでライズが始まったのである。私は目を凝らして水面を見つめたが、魚がライズするような虫は何処にも見あたらなかった。

当初100m以上釣り下がろうと思っていたのに、30分近く経っても私は最初のプールに釘付けのままだった。10回以上空合わせをした後で、漸く一匹のヤマメが針にかかった。私は魚を足下の流れまで引き寄せたが、護岸の下に降りることができない。仕方なく魚が少し大人しくなるのを待ってラインを掴み、静かに護岸の上に引き上げた。長さ25cmほど、幅が広く美しい模様のヤマメだった。

今まで針掛かりしなかったのは何故だろう。あれこれ考えながら再び流れに向かうと、雪はすっかり止んで向かいのケヤキの梢に夕陽が射していた。それと同時にライズが止んでしまった。私はまるで狐に摘まれたようだった。魚は風花にライズしたのだろうか。

-- つづく --
2006年05月11日  沢田 賢一郎