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桂川編  --第97話--

放流

桂川で老ニジマスを釣ってから数年経った。私はその魚のせいで桂川に見切りを付け、間違いなく至近距離に大物が生息している忍野へ戻ったが、その忍野も年毎に釣れなくなってきた。理由はいろいろであった。川が少しずつ汚れ、浅くなった。富士急ホテルを初め、釣り堀、テニスコート、スナック、別荘などが川沿いに誕生した。それに伴い木が切られ、川岸も削られてオーバーハングが無くなり、川底の藻も減ってしまった。隠れる所が減少するにつれ、ブラウンは本当に幻になってしまった。

私は当時忍野に通っていた人達と共に、ブラウントラウトの愛称であるブローニーという名のクラブを作り、ブラウンやヤマメの稚魚放流を始めた。1979年の7月、最初に放流したのはマスと言うより、まるでハゼかドジョウのような姿をしたか弱い稚魚だった。しかし放流の効果は絶大だった。8ヶ月経った翌1980年の解禁日、放流時に僅か5グラムしかなかった稚魚は、美しく立派なブラウントラウトに育っていた。大きさは25cmほどもあった。

驚いたのは魚のサイズばかりでなかった。それほど多くの稚魚を放した訳ではなかったのに、その年の忍野は川中にブラウンとヤマメが溢れていて、解禁日は何処に入ってもまるで雨が降っているかのようにライズしていた。そして秋になると、最大で38cmに成長した。この効果を目の当たりにすると、更に放流を増やしたくなる。翌年は放流魚にニジマスも加えることになった。
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1979年7月。ブラウンの稚魚が放流可能な大きさになるのを待って、忍野に放流した。

ところが不思議なもので、「大きくなれ、大きくなれ」と言いながら稚魚放流していると、次第にその魚を釣る意欲が失せてきた。私は野生の魚、すなわち自分がその魚の誕生や生存、成長などに関与していない魚を釣ることに莫大なエネルギーを使って来た。それが相手の存在も成長の課程もすっかり知れてしまうと、なんだか管理釣り場で釣っているような気がして、今一歩夢中になれなかった。相手が未知の世界に住んでいないとファイトが湧いてこない。そんな気分だった。

私は自分たちで放流した稚魚が成長するのを心待ちにしながら、放流ものでない魚を釣りたいと思っていた。いや、放流されたものでなく、自然産卵によって誕生した魚はもの凄く少ないのが現実だから、正確には自分たちが知らないところで放流された魚を釣りたい、と思っていたに過ぎない。しかしそんな気分から、「放流するのは忍野、魚を釣るのは桂川」と言うように、再び桂川本流を目指すようになった。そして釣り場は更に下流へと降りていった。

1980年までに、私は富士吉田より下流の寿、三つ峠、東桂と足を延ばすようになっていた。寿には取水するための堰堤があった。初めて出掛けたとき、その堰堤の上の溜まりに信じられないほど多くの魚が居るのを発見した。ほとんどがニジマスで、時々ヤマメが混じった。 3月の末、夕方近くになると鏡のような水面のあちこちにライズの輪が浮かんだ。恐らく羽化したダンを食べていたのだろう。ライズは音も飛沫も上がらない静かなものだった。
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寿堰堤の直ぐ上流で釣り上げた魚。イワナかと思ったが、交配種のイワマスであることが判った。

モグラ叩き

私は堰堤の上に立ってそれを待ち構えていた。右手にロッド、左手にリーダー、足下に20mほどのラインを落としておいた。そしてライズを見つけると同時に、そのリングの中へドライフライを投げ込んだ。ほとんど百発百中と言ってよいほど魚は浮上し、フライをとらえた。私は何年か前に日光の丸沼で楽しんだのと同じ「モグラ叩き」に熱中していた。

最初のうち、フライは何でも良かった。私は渓流で使っているフライを適当に結んでいた。ところが何匹も釣るうち、合わせ損なう魚やフォルスライズをする魚が増えてきた。私はその都度、フライのサイズを小さくすることによってしのいだ。最初は10番だったフライが最後は18番にまで落ちた。さすがに18番のフライを拒否する魚は少なかったが、如何に止水と言えども小さなフライは一匹釣るごとに浮きが悪くなり、3匹ほど釣り上げると沈んでしまった。フライのパターンを気にすることはなかったが、ローヤルコーチマンの成績が良かったことを今でも良く覚えている。
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寿の上流で釣ったニジマス。上流の方が普通の体型をしている魚が多かった。

私はこの「モグラ叩き」の釣りを午後4時から6時頃まで楽しむのが常だった。その時間帯にライズが多かったからだが、もう一つ、午前中は餌釣りの釣り人が居るためだった。この堰堤はそれほど広くない。しかも左岸は崖で降りられず、右岸の大部分は桑の木が茂っていて竿を出すことが出来なかった。そのため他の釣り人が居るときは遠慮せざるを得ない。幸い午後はほとんど誰も居なかった。

「モグラ叩き」が一段落する6時頃、ここも忍野のように川の様子が一変した。先ずライズが減り、辺り一面静かになってしまう。まるで一日が終わったかのようだ。私はそれを合図に道具を変えた。ロッドを6番に変え、2Xのリーダーの先に6番のマドラーセッジを結んで待った。
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1982年3月14日。前年に放流したニジマスの稚魚が急成長しているのに驚く。

今日はライズが起こるだろうか。もし起こらなければ大急ぎで忍野に移る。その決断は出来る限り早くしなければならなかった。考えてみると私は忍野に夢中になったおかげで、桂川や本栖湖を初め、千曲川や野呂川に居てさえ、時計を見ながらその決断を迫られ続けていたことになる。

運が良ければ薄暗くなるのと同時にセッジが飛び始めた。まるで風花が舞うようだ。それを合図に流れ込みの周辺で水柱が立つ。寿堰堤の場合、マドラーセッジで最初の3匹ほどを釣ることが多かった。所用時間はほんの僅かだ。釣っている時間より魚の口からフライを外している時間の方が長いくらいだ。その間に周囲は更に暗くなる。私は最初の数匹のニジマスを釣りながら全身を耳にしてライズを聞いた。何処で起こったライズが一番大きかったか、それを聞き分けるためだった。
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放流2年でこれほど立派なサイズに成長するのは驚異だった。

ライズは一斉に起き、気が付くと終わっていた。私が寿に行き始めた頃、その時点でフライをマドラーセッジからウェットフライへ交換することが多かった。やがて狙った大物を逃さないよう、初めからウェットフライを結ぶようになった。どちらの場合も、ライズが終わってからが勝負だった。それは大物を目指している内に自然と判ってきたことだが、複数の魚を釣った場合、大物は圧倒的に後で釣れた。最初は小物が釣れ、ライズが無くなって半ば諦めかけた頃にその日の大型魚が釣れた。思い当たる理由として、ライズが流れ込み周辺から始まることだ。そこでライズする魚はあっさり釣れることが多いが、大物がいない。しかしその辺りで釣っていると、下流の少し離れた場所で大物らしきライズを発見することが多かった。そのような時、私は近くの魚を釣り終えてから、ゆっくり目当ての魚を狙った。

-- つづく --
2006年08月18日  沢田 賢一郎