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桂川編  --第98話--

再会

富士吉田より下流の本流を釣るようになってから、私は過去に何度も出掛けた明見付近を釣ることが無くなってしまった。理由は単純で、釣れてくる魚にあった。明見付近で釣れた魚は概ね育ちの良い渓流魚であった。明らかに一般の沢に住む魚より成長の度合いが早い魚たちで、それが魅力であった。ところが下流の魚はまるで違っていた。
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都留付近のヤマメ。40cm近い体長、サクラマスのような姿、しかし支流に住む25cmのヤマメより若い。

都留付近を初めて釣ったとき、ヤマメの良型が釣れた。30cmを軽く越えるサイズであったが、驚いたのはそのサイズでなく、姿がまるでサクラマスのような銀色だった。しかも30cmを超えているというのに、稚魚のような顔立ちをしていた。同じ時期に私は忍野でも数匹の大型ヤマメを釣ったことがあった。35cmから40cmと言ったサイズで、一般的な尺度からするととんでもないトロフィーであったが、それらのヤマメも未だ育ち盛りと言った風体をしていて、成魚らしい風格が無かった。
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1985年当時のピーコッククィーン。桂川で最も多くの魚を釣ったフライの一つ。

そうした魚を見て私が直ぐ思い出したのは、そのまた一昔前のことだが、銀山湖で釣った60cm近いイワナや、裏磐梯の湖で釣ったやはり50cmを超えるサクラマス、そして数年前に本栖湖で釣った70cmのブラウンであった。それらの魚に共通していたのは、彼らの年齢がそのサイズから想像するよりずっと若いことだった。

「トロフィーサイズに育つのは、危険を幾たびもかいくぐって生き延びた老成魚」それが私の聞いてきたこの世界一般の常識であった。しかし私は前述の魚たちと巡り会ったとき、普通の速度で大きくなったのでは、例え長生きしても超大物にはなれない。信じられない速度で育つ魚が超大物になると思うようになった。つまり世に言う大物は老成魚が多いかも知れないが、「超大物は若い魚」と信じるようになった。
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忍野を遙かに上回る体型のブラウントラウト。どれほど餌があればこうなるのだろうか。

そしてもう一つ、私にとって大変重要な驚きがあった。そのような若い大物は全てウェットフライで釣ったもので、忍野と同じく、ドライフライで釣った魚のサイズと大きな隔たりがあったことである。桂川やその支流で、私は数多くのヤマメをドライフライで釣ってきた。しかしウェットフライを使うようになってから釣り上げた魚は、とても同じ川の魚とは思えなかった。更に重要なことは、ウェットフライで釣りをした時間は、それまでドライフライで釣っていた時間の僅か数分の一だったのである。

忍野と同じ方法で釣ってみない限り、桂川の可能性を判断できない。そう思ってから数年が過ぎた。私にとってもう議論の余地はなかった。少なくともヤマメやニジマスに関して、桂川本流が魚を育む能力は忍野以上である。唯一の気掛かりはブラウントラウトであった。私がそれまで桂川で釣り上げた唯一のブラウンは、忍野の直ぐ下流に住んでいた。あのブラウンを釣った当時まで、日本にはブラウンの放流を続けていた川はない。忍野では終戦後放流されたブラウンが自然繁殖することによって生き延びたが、その生息域が桂川に広がるまでに至らなかったと言うことだろう。
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虫吹雪の翌朝、岸辺の巻き返しに溜まったセッジの抜け殻。

新顔

1973年に明見でブラウンを釣ってから10年が過ぎた。私は夏になると相変わらず八ヶ岳や南アルプスの山岳渓流にヤマメやイワナを釣りで出掛け、帰りにイブニングライズの釣りを楽しむことが多かった。変わったのは帰り道に寄る川が忍野から桂川になったことだ。

7月の初め、いつものように私は夕方の桂川へ立ち寄った。場所は都留市の下流で、川幅は狭いが水量の多いところだった。私は当時その付近でヤマメとニジマスの大物を釣ることに熱中していた。その過程で私は一本のウェットフライを磨き上げていた。翌1984年、そのフライをピーコッククィーンとして完成させたが、そのフライは数年前からおおよそ同じ形に仕上がっていた。
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3月末、既に35cm。しかし未だ幼魚。
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ヨレの中(「ウェットフライ探究」より)

その日の出来事は「ウェットフライ探求」の「ヨレの中」と言う部分で既に取り上げたので、ここでは割愛するが、そのピーコッククィーンの6番で太ったブラウンを釣った。これ以降ブラウンが良く釣れるようになったが、それは1973年に釣った魚と違って、新たに稚魚が放流されたものと思えた。

10年後に釣り上げたブラウンが想像どおり新たに放流された魚であっても、ブラウントラウトに違いはない。私は桂川で再びブラウンに会えたことがことのほか嬉しかった。それにしてもブラウンもニジマスも本当によく太っていた。小さなサイズだと忍野の魚の方が太っていたような気がしたが、大型になると間違いなく桂川の方が太かった。それに付いて思い当たることがあった。
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1986年6月、均整の取れた美しい体型をしている鬼怒川の尺ヤマメ。大型化に伴い、その姿は限りなくサクラマスに近づく。

私が忍野に通い始めた頃、忍野は私が今まで見た内で最も水生昆虫の多い川だった。川底に生えていた金魚藻は黒川虫の巣窟だった。それも他の川で見慣れたものよりずっと大きかった。黒川虫以外のニンフも大型で、泥や砂の中にそれこそ掃いて捨てるほどいた。そして夕方になると待ち構えていたようにセッジが飛び交い、水面を走り回った。雪の降る3月でもセッジは飛んだが、5月になるとそれこそ吹雪のようであった。しかし年と共にその数が減ってきた。急激ではなかったが1980年代になると、「吹雪のように舞う」と言うことがなくなった。

それが桂川へ通うようになって、私は再び猛烈な吹雪に遭遇した。その桂川も数年後は吹雪に遭わなくなったから、魚の成長にとって理想的な条件はそうそう長続きするものではないことが判った。同じ頃、奥多摩でも虫吹雪に遭うことが珍しくなかった。今日の様子からは想像も出来ないことだが。

-- つづく --
2006年09月11日  沢田 賢一郎