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湖沼編 • 本栖湖  --第26話--

放っとけメソッド

私は一度車に戻るとラインをシンキングに換えた。この付近に潜んでいる魚がきっといるはずだ。ライズが無いのは深く潜っているせいかも知れない。それならフライを沈めて、より広範囲を釣ってみよう。先ほどの魚が戻るまで一時間あるから、今までと違った方法で釣りながら時間をつぶそう。私は何の疑いもなく本当にそう信じ、フライを遠くまで投げていた。5分置きに時計の針を見つめるうち、50分近くが過ぎた。フライは随分な距離を泳いだが、何事も起こらなかった。もう一回投げたらラインを元に戻して、あの魚を迎え撃つ準備をしよう。そう思ってラインを手繰っていると、突然ラインが押さえ込まれた。よし来た。私は待ってましたとばかりにロッドを起こすと、ラインを弛ませないよう、後ずさりしながらリールを巻いた。魚は頭を振りながら浮上してきた。凡そ50センチ程のブラウンだ。

待っていた魚にしては小さすぎるが、立派な魚には違いない。私は魚からフライを外しながら考えた。ライズが無かったのにこの魚は釣れた。もしかするとかなりの数の魚が深いところを泳ぎながら接岸してきたのではないだろうか。
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ブラウンの稚魚は、早いもので2年、遅くても3年以内にこのサイズに成長した。

迷い-----

そんなことは無いだろうと言う考えと、気が付いたなら早くフライを投げろと言う考えが、頭の中で交錯し始めた。私はフライを外すと急いで投げ直した。これ以上迷っている暇はない。
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フィエスタを噛み千切らんばかりにくわえ込む。

私は投げては手繰り、手繰っては投げるといった動作をそれから数回繰り返した。しかし当たりはそれっきり無かった。時計の針は先ほどのライズからほぼ一時間が経過したことを示している。私は再び急かされるように、ラインの交換を始めた。ガイドを全て通し終わり、リーダーの先にフライを結ぼうとした時、目の前で水柱が立った。しまった。私は自分でも情けないくらい慌ててフライを結ぶと、もう殆ど消えかかっている波紋を横切るようにフライを投げ、ラインを手繰った。やはり手遅れだった。私は手繰り終えたラインを直ぐに投げ返した。ところがそのラインが水面に落ちた時、もう一度水面が割れ、巨大なブラウンが上半身を露わにした。投げ終わったロッドの先で叩けそうに思えるくらい、正に目と鼻の先の距離だった。

小雨が降り始めていたけれど、真っ昼間の出来事である。黒い影ではなく、今度は顔付きまで鮮明に見えた。私はその後も粘ったが、雨が次第に激しくなり、遂に釣り場を後にした。私は又しても同じような失敗を繰り返してしまった。しかし今度は大きな収穫があった。魚は定期的に回遊してくるから、迷わず待ち伏せすること。それと、もう一つ。魚がその付近に居ると思ったら、ラインを手繰らない。フライをじっと水面に浮かべておく。何しろ彼らが食べている小魚の大部分は、瀕死の状態で水面に浮いているのだ。

その後、この方法は本栖湖のブラウンを釣る定番の一つとなり、多くのモンスターが釣り上げられた。フライを投げたまま放って置くことから、後に「ほっとけメソッド」と呼ばれるようになった。
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2番のフィエスタが異常に小さく見える。

ハンター

春の本栖湖を釣るのに、「ほっとけメソッド」が最も有効なことが判ってきた。作戦を成功させる決め手は何と言っても、餌の小魚を求めて定期的に回遊してくる魚を見つけることだが、それを可能にするのは、餌となる小魚の吹きだまりを見つけることだった。吹きだまりは風下側の湾の奥にできるが、規則正しくできる訳でなく、当てが外れることがしばしばあった。数年後、私はそうした現象の起きる可能性が最も高いのが、4月の25日前後らしいことを突き止めた。以来、ダブルハンドを担いでモンスターを狙うアングラーに、本栖の特異日と記憶されるようになった。

春の作戦はこうして一つの結論を導き出したが、秋から冬にかけては、実績を作ったものの、良く判らないでいた。

最初のモンスターを釣ってから一年が過ぎ、秋のシーズンが始まった。秋は魚が専ら沖で跳ねる。春のように岸近くで狩りをする魚の姿が見えないから、どうしても出会い頭を期待するのだが、それでは余りに確率が低すぎた。

1978年の秋ともなると、本栖にブラウンを求めて来るアングラーの数は随分と増えたが、ブラウンが幻の魚であることに違いはなかった。
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春は天気の悪い日に釣れることが多い。

ユスリカとヤマベ

私は秋以降、何故ブラウンの狩りが岸際で行われないのか考えていた。最も単純な答えは、そこに餌がないからだ。確かに秋は、春のように漂流している鮎やワカサギがいない。鮎の一部は冬まで産卵していたが、水面を漂う姿を見ることはなかった。ワカサギはこの時期深場に潜ってしまい、表層に出てこない。そのワカサギを追えば、ブラウンも潜るだろうから、それはフライフィッシングの対象外だ。すると表層に留まっているブラウンの主食はなんだろう。考えられるのはヤマベ、(オイカワ)しかなかった。ヤマベは本栖湖に豊富に生息しているし、ワカサギやヒメマスと違って、岸寄りの表層近くを泳いでいる。ヤマベを主食にしているブラウンなら、私の射程距離内に入ってくるだろうから、きっと狙いようがあるはずだ。
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秋はよく晴れて穏やかな日に良く釣れることが多かった。

私は秋から冬にかけて、過去にブラウンを釣ったり、目撃した時の状況を想い出していた。真っ先に気が付いたのは、天気だった。この季節に何かが起きた時、良い天気の日が圧倒的に多かった。どちらかというと、荒れているか、荒れた後の日が良い春とは対照的だった。確かに前の年にブラウンを釣った日も、ニジマスを釣った日も、共によく晴れていた。晴れた日の朝夕は寒い。しかし日中、気温が上がると、ユスリカらしきものが水面を飛ぶ。すると比較的岸近くで、ヤマベの群れがライズを始める。私がよく見たこの光景は、秋以降、移動性高気圧が本州を覆っている日に必ず起こった。
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どれほどの数のブラウンがヤマベを追うのか知らないが、表層で狩りをすれば必ず人の目に止まるに違いない。しかし春のように岸近くで小魚を食べる魚や定期便を見た人は殆ど居なかった。その代わり春には余り見ることのない現象もあった。一つは沖合で複数の魚が餌を追いかけることだった。かなりのサイズの魚が水面を割って餌を追う光景はすごい迫力だったが、私は感動しながら眺めるしかなかった。何しろ特別近くて50メートル、多くの場合、100メートルも沖で起こるから、手も足も出なかった。この光景は夜明けから暫くの間に見えることが多く、日中は殆ど目撃されなかった。

もう一つの現象は、ヤマベが何かに追われて逃げることだった。釣りをしていると近くの水面からヤマベが飛び出し、水面と平行に石を投げて遊ぶ時のように、跳ねながら逃げる。以前、同じ光景を相模湖や津久井湖で頻繁に見たことがあった。その時、ヤマベはブラックバスに追われていた。当時、本栖湖には未だブラックバスが居なかったから、私は何に追われているのか興味があった。勿論、ブラウンではないかと真っ先に疑ってみた。ブラウンは春、水面を割ったり、姿を露わにして餌を追っていた。その光景を何度も目撃した。それに対し、ヤマベはほんの数秒の間、ただ跳ね回るだけでそのまま姿を消すのが普通だったから、私は大型のハヤかブラウンの子供が、通りすがりにヤマベを追うのではないかと考えるようになった。しかしもしその通りだとすると、前年度のように、出会い頭を期待するしかなくなる。幾ら晩秋から冬にかけ、産卵期を目前に控えた大型のブラウンが、接岸する可能性が高くなるとは言え、出会う確率は余りにも低すぎる。

-- つづく --
2001年10月14日  沢田 賢一郎