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サクラマス編 • 第1ステージ  --第47話--

メイフライ

4月の下旬ともなると、寒いのは朝のうちだけで、陽が上がるとセーターを着ていられないほど暑くなる。増水から平水となった九頭竜川は、その日かなり減水していた。渇水ではないが、プールは何処も随分と大人しく流れていた。 私はその日、機屋裏プールの上流を釣ってから送電線の上のプールに向かった。水温は最初の魚を釣った時が6度、前回が8度。そしてその日は10度まで上がっていた。
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釣り始めて間もなく、目の前の水面からサクラマスが浮上してメイフライを食べた。
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プールの核心部を慎重に狙う。

釣り始めて間もなく正午を告げるサイレンが響き渡った。あの音を聞くと釣れそうな気がしてくる。これまでもそうだったが、丁度正午頃からメイフライがハッチする。この日は暖かだったため、私の周辺の水面を沢山のメイフライが流れていった。ハッチが始まったから、水面に浮上するニンフが沢山いるだろう。前回の魚は、胃の中から多数の川虫が出てきたくらいだから、この時間、九頭竜川には、それを待ちかまえて食べているサクラマスが沢山いるかも知れない。もしかしたら、このプールにもそんな魚がいるだろうか。

流れの筋が私の直ぐ横を通って目の前に延びている。その筋に沿って流れていくメイフライを見ていると、突然水面を割って魚が飛び出した。 私は予期せぬ出来事に慌ててラインを掴むと、大急ぎで手繰って投げ直した。喉が渇くくらい緊張しているのがわかる。不意の出来事に驚いたのではない。水面から現れたのは、どう見てもサクラマスの顔だったからだ。 私の正面、しかも距離は僅か10メートル余り、間違いなくサクラマスだったと今でも確信しているが、メイフライを食べにライズしたのを見たのは、それが最初で最後だった。
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微かな当たり、それが不運の始まりだった。

真下の流れ

私は何回もその辺りにフライを流したが、ロッドには何の変化も伝わってこなかった。緊張したまま釣り下るうち、前回釣り上げた付近に差し掛かった。このプールには今日もサクラマスが居る。きっと当たりがあると信じていたが、何も起こらない。そんなはずはないと思いながら最後に投げたフライも、何事もなく流れを横切り、私の下流に戻ってきた。

すっかり自分の真下の流れに延びきったラインを手繰った時、小さく軽い当たりがあった。岸際にウグイでも居たのか。そんな気持ちで持ち上げたロッドが、押さえ込まれるように止まってしまった。同時にドスンドスンとあのサクラマス特有の振動が伝わってきた。

「来たぞ」
「やはりここにいた」

してやったりと思った直後、大きく曲がっていたランドロックは、軽くなったラインを引きずって真っ直ぐ上を向いてしまった。

「まさか、、、そんな」
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2尺ヤマメの行動パターンは、遡上したばかりのサクラマスとは明らかに異なる。

目の前の流れは何も変わっていない。たった今の出来事は夢ではないかと思えてきた。いや、夢であって欲しい。

私はその場で身動き一つできず、呆然と立ち尽くしていた。

ウェットフライを使ってダウン&アクロスの釣りをする時、魚がフライを自分の真下に流れ切った所で捕らえることほど、フッキングにとって最悪の状態はない。何としてもそれを避けたいから、水面に落ちたフライが一刻も早く魅力的な流れ方をするよう、投げ方から使用するラインまで、ありとあらゆるものを工夫する。

流れの単調な少々渇水気味のプールを、私の投げたフライは一見非の打ち所なく流れていたように見えた。前回は水量がずっと多かったし、強風下でラインのコントロールも遙かに難しかった。それでも魚は流心でフライを捕らえた。それに比べれば、今日のフライの流れ方はずっと安定していた筈なのに、どうして流れ切るまでフライを捕らえなかったのだろう。

ロッドに伝わってきた当たりそのものも、ウグイと間違えるくらい大人しかった。何がそうさせたのだろう。
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本当の合流点ではないが、二分する流れは遡上する魚を暫し止める。

釣り上げたサクラマスの胃の中から川虫が沢山出てきた。美味しい餌が食べられないから、仕方なく小さな川虫を食い漁った。そうこうするうちに、その食生活が当たり前になってしまい、大きな餌に関心が薄くなってしまった。そんな推測が私の脳裏をよぎった。

しかし、一週間前に釣り上げた二匹のサクラマスは川虫を沢山食べていただけでなく、その内の一匹は川に遡上してからかなり時間がたっているように見えた。その二匹の魚が、共に大きなアクアマリンをバッサリとくわえていたのだから、食欲や条件反射に問題は無かったはずだ。

今の魚は特別神経質な魚だったかも知れない。5匹連続が達成できなかったからと言って、4匹連続で釣り上げたことに変わりない。もう少し様子を見よう。

私は逃がしたことを早く忘れ、次の魚を見つけることに気持ちを切り替えるよう努めた。
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何が彼女らの生活様式を変えるのか。

空っぽのプール

遅い昼食を済ました後、私はもう一度送電線の上に向かった。昼に逃した魚がもう一度フライを追うことなど期待していなかったが、あの魚がやって来る前に、私の目の前でメイフライにライズした魚が気になって仕方がなかった。本当にサクラマスだったかどうか、釣り上げてみればはっきりする。

私はライズを見た場所を確かめると、その少し上流から釣り始めた。気温が高くなっても春の日は未だ短い。低くなって黄色みを帯びた陽の光が眩しかった。私はいつもより小刻みにゆっくりと釣り下っていった。昼間、あれほど流れていたメイフライの姿はもう見えない。岸近くにいたあのサクラマスは、今はこの先の流心にいることだろう。

私はそう思って慎重にフライを投げ続けたが、長いプールを釣り切っても何の当たりもなかった。数時間前に私のフライを捕らえた魚は、もうこのプールには居ない。驚いて何処かへ行ってしまったに違いない。しかしあのメイフライにライズした魚も、既に移動してしまったのだろうか。                        

一流しして当たりが無ければ、その場所に魚は居ない。その時、私はそう断言できるほど自信を持っていた。
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合流点プールの開きに陽が沈む。二尺ヤマメは食事にやって来るだろうか。

夕陽の合流点

私は下流に向かってそのまま釣り続けた。送電線のプールを釣り終わり、次いで合流点に差し掛かった頃、辺りに夕方の気配が満ちていた。時刻からして、ここが最後のプールになるだろう。

私は流れ込みの脇から水に入り、ゆっくり釣り始めた。水が減っているため、プールの核心部が直ぐ目の前に広がっている。合流点プールがこれほどゆったりと流れているのを見るのは、その時が初めてだった。

私は右岸から釣っていたが、流心は左岸側を流れている。その流心がプールの中央付近で急に大きく広がっている。そこの流れが不規則で、打ち寄せる波のように強い流れが不定期にやってくる。フライの流れ方が毎回少しずつ変わるのを楽しむように、同じ場所に何回か投げていたが、その変化に富んだ核心部も終わってしまった。
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雪代の中からやって来たサクラマス。まるで海の魚だ。

このプールも空っぽなのだろうか。振り向いてしげしげと見渡すと、そんな筈はないような気がしてきた。規模といい、形といい、魚が居ない方が不思議だ。しかし核心部を丁寧に釣っても、何の反応も無かった。

プールの形が何となく似ているせいもあって、私は二週間前の機屋裏プールの出来事を想い出していた。あの時、私は遡上してきた魚が休む場所を考え、その予想が的中したおかげで、立て続けに釣ることができた。

それが今日、魚を一匹逃した。それ以外にもフライを無視した魚を見つけた。

目の前の川にいる魚を一匹残らず釣りたい。何時もそう思っているのに、僅かな時間しか達成できない。魚も十匹十色だし、条件も刻々と変わるからだ。昼間、逃がした魚が特別気難しい魚であったなら仕方ない。しかし、もしそうでなかったら。

もし事情が根本的に変わってしまったのに、私だけが気が付いていなかったら、これまでの成功は過去のものとなってしまう。あの魚は、今までの釣り方が通用しない第一号だったかも知れない。ふと、そんな想いが脳裏をよぎった。

-- つづく --
2002年04月07日  沢田 賢一郎