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サクラマス編 • 第2ステージ  --第66話--

春雷

暫く出掛けていなかった九頭竜川の様子が気になって、私は北上川から帰るとあちらこちらに電話で聞いてみた。雪代の最盛期を迎え、川は一年中で最も大きく膨れあがっている筈だ。川に入るだけでも大事だから、もしかすると空いているかも知れない。

そんな期待をしていると、本当に川には殆ど釣り人が見えないという知らせが飛び込んできた。ところがよくよく尋ねると、増水でなく渇水で芳しくないと言うのだ。

私は俄に信じられなかったが、雪代がピークを過ぎたところへ取水が始まってしまった。そのおかげで川は突然の渇水に見舞われ、魚の気配もないと言うことだった。
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いつものように土手を駆け下り幼稚園前に向かう。

確かにこの冬は積雪量が少なく春の訪れが早かった。解禁日に雪代が流れ、河原には雪が無かったのだから、平年より一ヶ月ほど季節が早まっていたと見るのが妥当かも知れない。その少ない雪が山から溶けだしてしまえば、早々と渇水になる可能性は充分にある。

私は数年前の渇水の景色を想い出していた。あれは5月だったが、まさか4月になったばかりなのにあのような渇水がやって来るものだろうか。何はともあれこの目で確かめなければ。4月の第1週目、私は九頭竜川に向かった。

探索

夜が明ける頃、私は五松橋を渡った。橋の上から一瞥しただけで何か様子がおかしく感じられた。私はいつものように送電線の下に車を留めた。土手の桜は未だ咲いていないが、朝早いと言うのにちっとも寒くない。土手から見下ろす川は確かに2年前の渇水を思い出させるに充分なくらい、明るくサラサラと流れていた。釣れていないと聞いたが、一ヶ月前、雪代に目覚めて遡上したサクラマスは何処にいるだろう。鳴鹿の堰堤を越えて上流へ行ってしまったのか。それとも海に戻ってしまったのか。

これが五月なら2年前と同じ状況だ。何処へフライを投げてもウグイの入れ食いになるだけだ。でも今は未だ4月の一週目。思えば前の年はこの週から釣り始めたではないか。水位は低いが可能性はある筈だ。
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渇水になるとテトラの間に魚が潜む。

私は渇水によって細かく分断されたポイントを片っ端から釣ることに決めた。サクラマスは何処にいるか判らないが、居さえすればあっさりと釣れるはずだ。幸い五松橋の付近に釣り人は一人も見えなかった。

先ず機屋裏の上手に向かった。増水時は急な一つの瀬になってしまうが、今は幾つかのポイントに分かれている。その一つ一つにフライを流していった。失敗や釣り残しの無いよう丁寧に投げる。その代わり一流しだけで次のポイントに向かった。

釣り終えてから次のポイントに向かうのに長い距離河原を歩く。歩けなくなるともう一度車に戻って移動する。その繰り返しである。午前9時を過ぎた頃から陽差しが強くなってきた。川に入ってロッドを振っているときは気持ちよいが、歩くとセーターを脱いでも暑い。
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浅い瀬があちこちに出現し、対岸に渡れる場所ができる。

水温は朝でも10度を超えていた。私はプールの流れ込みの瀬と水通しの良い流心に的を絞って、25ミリのウォディントン・シャンクに巻いたフライを投げ続けた。

五松橋の上流を釣りきった私は、単調な浅い瀬になってしまった送電線上の瀬を下り、次いで池になってしまった下のプールの流れだしを釣り、そのまま合流点に入った。朝からウグイとおぼしき当たりが数回あっただけだったが、合流点の下には前の年にサツキマスを釣った瀬が続いている。その瀬に期待していたのだが、遠くにルアーを投げている釣り人が二人見えた。私は仕方なくその瀬を諦め、車で更に下流に向かうことにした。

11ラウンド

夕方、8号線の下流にある三カ所のプールを釣り終わったとき、さすがに疲労が全身を包んでいた。私はすっかり棒のようになった足を引きずって茅の林を潜り抜け、最後の土手を登った。熱く重い身体に涼しい風が心地よかった。

この日フライを流したポイントは10カ所に及んだ。その間、当たりは十数回。釣り上げたウグイ数匹。それ以外もウグイと思える当たりばかりだった。やはりサクラマスは何処かに行ってしまったのか。

全てとは言わないが主立ったポイントにはフライを投げた。確かに水は少なく水温も高かったが、魚が居られない程では無いように思えた。それでも新たに遡上するには水が少なすぎるのだろう。もしかしたら魚はこの先、渇水が更に酷くなることを予知して海で待機しているのだろうか。鮎釣りをしていると、セキレイやアシナガバチが河原のどの辺りに巣を作るかでその後の水量を予想できるが、今は未だその季節ではない。私は様々な憶測をしながら車を堤防沿いに走らせていた。

夕方6時だと言うのに空が暗い。朝から続いた快晴のせいで気温が急上昇し、おかしな雲が西の空に広がっている。その雲間から夕陽が二筋ばかりサーチライトのように伸びていた。
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水が減ると思いがけない川底の様子に驚かされる。

高速道路の下を潜った時、わたしは堤に目をやった。その堤の向こうには長い瀬がある。今日一日、川を釣り歩いた私にとって、釣りたかったのに釣りをすることができなかった唯一のポイントである。畑の中もそれに続く土手にも車が見えないところを見ると、今は誰も居ないのだろう。

長い瀬の下にあるプールに行くには、堤を越えてから草むらを暫く歩かなくてはならない。こんな事もあろうかと私は未だウェダーを履いたままで居たが、直ぐには決心できず、車を止めると雲と堤防を交互に見ながら考えた。朝方釣ったプールにもう一度向かうより、未だ釣っていないプールに行った方が良いのは目に見えている。

私は県道を折れると土手の下の農道に車を止め堤を越えた。上りはミシミシ、下りはガクガク、私の足からそんな音が聞こえてきそうだった。高速道路の直ぐ上流に広がるプールは浅い。しかし陽が陰ったおかげで底石が見えなくなり、昼間よりずっと魅力的だった。私は右岸にある古い杭の際から釣り始めた。水面を赤銅色に染めている光と涼しげな風が、嵐が近いことを予感させていた。

釣り始めてほんの数分、未だラインを思い切り伸ばす前に流れていたフライが止まった。魚が頭を振る度にロッドの先が大きく揺れる。

「遂にきた、サクラだ」
「ここに来て良かった。最後まで諦めないで良かった」

ファイトは始まったばかり。しかも私は未だ魚の姿も見ていない。それなのに私は妙にしみじみとそんな感覚に包まれていた。
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水位の変化はポイントの善し悪しを大きく変える。

赤い川

ランディングするのと同時に雲間に稲妻が走った。季節外れの熱い一日のせいで積乱雲が発達し、雷を伴って夕立が発生した。感情を抜きにすればそう言うことなのだが、私は何かしら神懸かりめいたものを感じた。雷雨は暗くなると同時に激しさを増し、夜半近くまで続いた。

この付近だけなのか、それとも上流域を含む広範囲に降ったのか。明日の川はどうなるだろう。変化なしか、それとも増水か。夜が明けてみるまで私は勝手に想像する他なかった。

翌日、私は朝早く目を覚すと直ぐに川の様子を見るため車を走らせた。空はすっかり晴れ渡っていて、道路さえ濡れていなければ昨夜の雷雨が嘘のように思える。

堤の上から川を一目見た瞬間、思わす声が出た。昨日の三倍程の水、しかも真茶色に濁った水が流れている。私は身動きもせずに眺めていたが、暫くして水の音が聞こえないのに気が付いた。濁っていたため一見、洪水のように見えたが、決して大増水ではなかった。昨日の三倍には違いないが、もし水が澄んでいたら雪代の盛期と何ら変わらない。

それに気が付くと少しばかりほっとした。けれどもここで何時まで眺めていても水が減るわけではない。私は川から戻るとなるべくゆっくり支度を始めた。昨夜の夕立は広範囲に激しく降ったのだろう。しかし天気はすっかり回復している。これ以上の増水はないだろうし、時間と共に少しずつ良くなるに違いない。

ところで魚は今どうしているだろう。昨日はこの付近のポイントのほぼ全てを釣った。幸いにして最後の最後に魚と巡り会ったが、数多くの魚が居たとはとても思えたかった。魚が少なかったのは渇水のせいだ。水が少ないために下流で待機している魚は、この増水で上って来るのではないか。
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時にはあまりの変化にただ立ち尽くす事もある。

私は新規に遡上してくる魚に期待したかったが、川は未だ濁っている。海からやって来る魚に今すぐ会いたいと言っても無理だろう。それなら今日は何をあてにすれば良いのだろう。それが決まらないうちは狙う場所も決められない。

昨日の魚は夕方遅くなって、上流に速い流れの続く場所でやってきた。恐らく日中はその速い流れの中にある大きな石か障害物の陰に入っていたのだろう。この増水でそうした魚は緩い流れに避難しているに違いない。渇水の昼間に潜むことができる場所と、増水の時に避難できる場所が両方備わったポイントは何処だろう。

私は知っている限りのプールを思い浮かべ、可能性の低い所を外していった。最後に二つの場所が残った。機屋裏プールと幼稚園前プールだ。機屋裏は直ぐ上に溝や大岩の点在する急流がある。身の安全と酸素を求めて瀬の中に入っていた魚は、この増水で下のプールに降りてきている筈だ。幼稚園前も同じだ。流れ込みの瀬にはテトラポットが幾重にも入っている。そこに潜り込んでいた魚は下流の緩い流れに避難しているに違いない。

私は堤の上から両方のプールを観察した。どちらも岸際に緩い流れができていたが、濁流の中で釣りをした経験は幼稚園前プールの方が多く、流れの様子も判っている。幸いルアーの釣り人が右岸に数人いるだけで、目当ての左岸には誰も居ない。私は身支度を済ますと堤防を駆け下りた。

私は流れ込みからかなり下がった場所に狙いを定めた。水位は朝方より下がったが濁りは相変わらず酷く、膝まで漬かっただけで靴が霞んで見えた。流心の流れは速いが手前側に緩い流れが池のように広がっている。私はその境目の向こうにラインを投げ、少し沈んだ頃合いを見計らって手前の池のような場所を丁寧に釣った。流れが緩いからタイプ2のラインでも放置すると直ぐに根掛かりしてしまう。私はラインのスィングが終わると同時にゆっくり手繰り続けた。
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次の魚がやって来るまで何百回、いや何千回投げなければならないのか。前もって判ったらとても続けられない。

釣り始めて30分近く経過した頃、それは突然やってきた。流れきったラインをおおかた手繰った時、私の下流で水面が渦を巻き、あっという間に手元のラインを引きずり出していった。ロッドを起こしたときにはリールが激しく逆転していた。そしてほぼ同時に目の前の水面を割って、真珠のような色をした大きな魚が飛び出した。

続けて2回跳ねるとその魚は流心に走った。そして濁った水面を黒い背中で切り裂くと、驚いたことに急に向きを変え上流に向かって走った。長い金属音と共に30m余りのラインを引き出すと、又水面を激しく割って跳ねた。陽の光を浴びて水飛沫までが真珠色に輝いて見えた。

魚はそこで数回大きく頭を振ると、休む間もなく再び上流に走った。スティールヘッド以外の魚では、それまで経験したことのない時間リールが逆転を続け、フラットビームが流れ込みの瀬に向かって伸びていく。この魚は何をしようとしているのだ。そう思った時、遙か遠く流れ込みの瀬の脇で、目を射るような一筋の光と共に黒いシルエットが空高く舞った。

そして消えた。ロッドの重みも、ラインの重みも、全て消えた。

目を開けているのに、景色が蜃気楼のように霞んでいる。水面の彼方に有る筈の山が見えない。岸にたどり着くまで、その場に倒れ込みそうになるのを必死で堪えた。水から上がると私は竿を杖代わりにし、最後に姿を見た辺りを振り返った。ただ静かに川が流れている。何か叫びたいのに声が出てこない。私は幻を見たのだろうか。

-- つづく --
2002年11月24日  沢田 賢一郎