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忍野編  --第50話--

蜘蛛の糸

随分と古い話から始めようと想う。私が本当の意味でフライフィッシングに取り憑かれ、そして同時に、ウェットフライの深遠な世界に引きずり込まれるきっかけとなった話である。

1969年の夏、私の眼は新聞の釣り欄に書かれていた小さなカタカナに釘付けになった。並んでいるコラムの中にブラウンという文字を見つけたのである。

「ブラウンが一匹。場所は桂川の上流、忍野地区。」コラムはこれだけであった。私は最初、我が目を疑った。次いでその記事を疑った。どうして日本にブラウン・トラウトが居るのだ。それも桂川に。

桂川は私にとって、子供の頃からとても馴染みの深い川だった。鮎釣りで何度も出掛けた川だ。その川にブラウンが居るなんて聞いたこともない。いったい忍野地区とはどの辺りだ。私は地図を取り出すと、桂川に沿って自分が出掛けたことのある場所から順に眼で追った。

上野原、梁川、鳥沢、猿橋、大月。やはりそんな地名はない。上流と書いてある所をみると、もっと上だろうか。鮎釣りでしか行ったことのない私には、そこから上は未知の流域だった。地図の上の青い線が次第に細くなってきた。未だ見つからない。もう川が消えそうになる富士山の裾野で、それはやっと見つかった。鮎釣りどころか、真冬に氷に穴を開けてワカサギを釣った山中湖の直ぐ近くだ。道理で知らない筈だ。

ブラウンが本当に居るのか、私は半信半疑だったが、地名が発見できたのだから先ずは調べて見よう。本当にブラウンが居るなら、これは大ニュースだ。
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桂川の上流部。この遙か上流にブラウンが本当に居るのだろうか。

1969年

1969年と言う年が私にとってどんな年だったか、最初にそれを説明しておかなければならないだろう。当時、私は新しい釣りであったルアーに夢中だった。それもバスよりトラウトの方に惹かれていたから、ヤマメやイワナを求めてあちこちの渓谷を歩き回り、湖にボートを浮かべてトローリングを楽しんでいた。芦ノ湖にニジマスが居るのを知ったのもその頃だし、越後や裏磐梯の湖を回って、大型のイワナやサクラマスを釣りまくっていた。

それ以前にヘラブナ釣りに夢中になっていた頃、私は相模湖や津久井湖に通い詰めたことがあった。ところがもっと海抜の高い西湖や河口湖を知ると、同じヘラブナを釣るにしても、そうした水の澄んだ湖の方が好きになった。バスよりトラウトが好きになったのは当然の成り行きで、釣り場所も魚も、冷水魚の方が私にとって圧倒的に美しい存在だった。

フライフィッシングに関しては、その前年の1968年に生まれて初めてロッドを持った。その当時、国内ではどんな釣りの本や雑誌を見ても、そんな釣りは一欠片も載っていなかったから、私には何の知識も備わっていなかった。洋書の中にある写真を見て、フライでも大きな鱒が釣れることを辛うじて知ったくらいだった。

一方、それまで夢中になっていたルアーには、そのうち飽きるだろう。そんな予感がしていた。釣り方が安易なのに魚が釣れすぎるし、最初の内、綺麗だと思っていたルアーそのものが、美しいと思えなくなってきた。それに引き替え、フライフィッシングは、やればやるほど謎だらけ。日本式の毛針釣りを単に洋式にアレンジしただけと言う、最初の考えは微塵に打ち砕かれてしまった。
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芝生の上で少しばかり練習しただけでヤマメ釣りに出掛けた。しかしここでいきなりラインを伸ばしたらどうなるか。容易に想像が付く。

誰でもこの釣りを知った時に感じることだが、私も最初にフライロッドを持った時、魔法のように伸びていく筈のラインが、蜘蛛の糸のように私にまとわりついて、こんな筈では無かったと途方に暮れた。ルアーを投げるような訳にいかなかった。

それでも芝生の上で少しばかり練習してみると、何となく様子が掴めてきた。私は期待に思い切り胸を膨らませ、早速、河原に降りた。私の投げたフライに、ヤマメがどんな風に飛びつくだろう。その光景が目に浮かんだ。

水際に立ってロッドを振り始めてから凡そ30分、私はひたすら糸の先にフライを結び続けていた。私は水面を流れるフライに飛び出すヤマメを早く見たいのに、ロッドを振ると、たったいま結んだばかりのフライが消えている。結び方が悪いのかと思ったが、そうでは無さそうだ。どうしてフライが水面に落ちないのだろう。その理由が判った頃には、フライを入れて置いた箱が空になっていた。

「魚を釣りたければ、もっと練習してから出直してこい!」通い慣れた奥多摩の谷がそう叫んでいるような気がした。

しかしそれが私の負けん気に火を点けたような気がした。美しいラインを伸ばしてかっこ良く釣ることが、そんなに簡単にできる訳がない。人間が行う全ての美しい行為は、それ相当の努力無くして得られない。そう納得すると、今度は寝ても覚めても、フライフィッシングをマスターすることばかり考え始めた。

しかし血気にこそはやっていたが、当時の私はフライフィッシングに付いての知識など、何にも持ち合わせていなかった。そのため、戦前にブラウントラウトが移入されていたこと。その末裔が日光や上高地に生息していること。終戦直後、欧米の将校が忍野にブラウンを放してフライフィッシングを楽しんだことなど、全く知る由もなかった。

ともあれ、私は英語でしか読んだことのないブラウントラウトの存在を確認したくて、地図を便りに忍野へ向かった。
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フライフィッシングに慣れるに従い、奥多摩の沢に腕試しに出掛けた。結果はもちろん悲惨なものだった。

不思議な川

富士吉田の町を通り過ぎると、道路の両側は唐松の林が広がっている。山中湖に抜ける道として何度となく走ったことがあったが、そこから林の中に向かって伸びている細い道をついぞ気にしたことは無かった。

地図を見ながら国道を折れてみると、雨でぬかるんだ道が松林の中に向かっている。直ぐに細い川を渡った。橋の下には申しわけ程度の水が流れていた。こんな川にブラウンがいるわけが無い。

少し先のカーブを曲がると、灌漑用水のような景色が現れた。川のようだが、コンクリートで堰き止められている。

更に進むと道路の右側に確かに川があった。その先にまたもや堰が設けられていた。車を降り、上流に架かっていた橋の上に立ってみると、足下に澄んだ水が流れていたが、両岸は芦が繁り、川底は砂と緑の藻で覆われている。川の両側に田んぼが広がっていたから、これは灌漑用の水路に違いない。とても鱒が泳いでいる川とは思えなかった。
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1970年6月。新緑に覆われた忍野。初めて見た時、田んぼの中の水路にしか見えなかった。

鱒が住む川というのは、即ちイワナやヤマメが住む川といった認識が私にはあったから、桂川の上流は、無数の岩の間を水晶のように澄んだ水が流れているに違いないと思っていた。日本にはイングランドにあるようなチョークストリーム、つまり湧水を水源に持つ川は少ない。湧水と言うだけだったら、私も身近にそう言った川を幾つか知っていたが、どれも釣りの対象として見たことが無かった。子供の頃にザリガニやフナやドジョウを捕った川くらいの記憶しかなかったから、忍野を流れる桂川を初めて見た時も、鱒ではなく、フナやコイを釣るのに良さそうな川だと思った。勿論、橋の上から見る限り、一匹の鱒も見えなかった。

あの新聞の記事はおかしい。もしブラウンが本当にいるなら、もう少し下流ではないか。下流は普通の渓流だし、ヤマメもいるから、ブラウンがいる可能性が無いとは言えない。

私にとって初めての忍野は、そんな風に、全く見当外れのまま終わった。まさか翌年から大物を狙って通い詰め、その後10年以上に亘って最も釣りをする機会の多い川になろうとは、その時点で想像だにしなかった。

-- つづく --
2002年08月04日  沢田 賢一郎