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忍野編  --第53話--

忍野太郎

忍野から戻ると、私はブラウンを見つけたことを数人の釣り仲間に話した。海外で魚を釣った経験のある人が、5月になったら釣りに行こうと言い出した。5月になるとメイフライが羽化を始める。そうすると大きな鱒がそれを食べにライズする筈、と言うことだった。

私はその理屈に何の異議もなかったが、別の問題が有った。それまで待てない。あんな魚を見たら、とてもじっとしてなど居られない。月が変わって4月になると、私はまた一人で忍野を目指した。

その日、私は午前8時頃に土手の上に立ち、堰堤の中を眺めていた。風もなく穏やかな日で、アカハラのさえずり声以外何も聞こえない。午前中に来たのは初めてだったが、光線の具合が良く、プールの中が良く見える。その代わり対岸側は陽が陰って全く見えなかった。
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忍野のメイフライ。これが羽化すると大物がそれを狙ってライズする筈。本当にそうなのだろうか。

私は手の平をかざしてプールの中に眼を這わしていた。真ん中に岩が露出した部分があり、そこに木の枝が絡まっていた。その辺りを良く見ようとして私が上半身を動かした時、薄い影が二つ、上に向かって動いて行った。40cmほどのサイズに見えた。

暫く探したが、それ以外は何も見つからなかった。私は車に戻って支度を済ますと、枯れた芦を掻き分け水辺に立った。明るい春の陽射しの下、細かい虫が沢山飛んでいたが、水面には何の変化も無かった。

こんなに沢山の虫が飛んでいるのにライズが全く無い。これではドライフライを投げても無駄だろう。私はそう思ってブルーダンのマツーカ(matuka)を2号のリーダーの先に結び、対岸の日陰に向けて投げ始めた。当時、テーパーリーダーという物は未だ存在していなかった。私は2号の糸を一尋、凡そ6フィートほどをフライラインの先に結んでリーダーとしていた。
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丁度川が見えなくなる辺りに薔薇が生えていた。その薔薇の根元に巨大なブラウンが住んでいた。

遭遇

私は対岸に向けてフライを投げながら、上流へ移動して行った。3度に1度はフライが後ろの芦を釣った。釣りと言うより、繁った芦と格闘していると言った方がぴったりだ。

対岸には芦の固まりの間に大きな野薔薇の株が3カ所有った。最初の株までは遠くて届かなかったが、2番目の株まで来ると川幅が随分と狭くなってきたので、当時の私でも根元にフライを投げることができた。川に向かって張り出している株の下流側に上手くフライが落ちたのを見届け、ラインを手繰った。フライは殆ど沈んでいない。キラキラと輝く水面の下を泳いで来る。

何か大きなゴミが流れて来たような気がした。水面の眩しさが柔らんだ時、ゴミではなく流木のように見えた。私が手繰っているラインが、まるでそれを引っ張っているかのように流れてくる。

至近距離になって、私は初めて枕木を半分に切ったような茶色の固まりが、流木ではないことに気が付いた。

魚だ。今まで見たこともない大きさの魚だ。竿先どころか、手を伸ばせば触れそうに思える所まで追ってくると、茶色い魚は身を翻して戻って行った。

私はまたまた幻を見たのでは無いかと想った。本当に魚だったのだろうか。しかし流木が反転して上流に戻る筈はない。気が付くと喉がからからになっていた。私は呼吸を整え、対岸の薔薇に向かってもう一度フライを投げた。幸いにもフライは一回目と同じように、張り出した枝の後ろに落ちた。もう一度追ってくるだろうか。私はキラキラ光る水面を見つめながら、同じタイミングでラインを手繰った。
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イブニングライズの時間帯が絶好のチャンス。そうなると、どこへ行っても帰りは忍野と言うことになった。当時、富士川の支流によく出かけたが、そこが目的なのか、帰りの忍野が目的なのか、よく判らなかった。

再び茶色い影が浮かび上がった。今度はスピードが速い。手繰っているラインが引ったくられるぞ、今か今か。

私の目にフライが映った。そのフライをくわえているように見えるほど接近して、巨大な固まりが追ってくる。ロッドの先にリーダーが入ってしまった。もうこれ以上手繰れない。

私の足下で茶色の固まりがゆっくりと向きを変えた。その時、大きな眼がぎろっと動き、私としっかり視線があった。「こんな物で俺を騙せると想っているのか」そんな眼だった。

私は暫くの間、溜息もつけないほど緊張していた。漸く我に返ってロッドを振り直したが、手の震えが止まらない。やっとの思いで薔薇の根元にフライを届けると、もう一度ラインを手繰った。もう無理だろう。3度も追う筈がないことは判りきっていたが、それでも僅かな期待を持って水面を見つめ続けた。フライは明るい太陽の下、何事も無かったように戻ってきた。その次も、またその次も。

私は自分が幻想の世界に紛れ込んでいたような気がしてならなかった。大河ならいざ知らず、こんな川にどうしてあんなに大きな魚、それも憧れのブラウントラウトが居るのだろう。私は曲がり角に行き着くまで一通りフライを投げ終えると、道路を大きく迂回して対岸に渡り、薔薇の根元に近づいた。

野薔薇の株が大きいと言っても、あの大きな魚を包み隠すことはできないだろう。そう思って川底を舐めるように見透かしたが、小さな鱒を一匹見つけただけだった。薔薇の根元は岸が抉れていた。上から覗いても、その奥は見えない。この付近で見えない場所、魚が身を隠すことのできる場所はそこしかなかった。
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新緑と共に岸辺の芦が伸び始める。張り出した枝の下は、ブラウンにとって格好の住みかとなる。

忍野温泉

太陽はますます明るさを増して川底を照らしている。朝の内くすんだ色に見えていた藻が、鮮やかな緑の旗を振るように川底でたなびいている。ここまで明るくなったらもう無理だろう。私は忍野温泉の周辺が森に包まれていたことを想い出し、僅かな期待をもって向かった。

案の定、そこは張り出した枝が川面を覆っていて、多くの日陰を作っていた。未だ枯れ枝ばかりなのにこれほど日陰が有るくらいだから、夏になったら真っ暗になってしまいそうだった。

私は下流からゆっくりと釣り上がった。釣り上がったと言ってもフライを上手く投げられる場所が少ない。如何にも魚が潜んでいそうに見える場所が続いているというのに、私の腕前では歯が立たない。

暫く進むと川幅が少し広くなった。真ん中に木が沈み、対岸から水が湧き出している。まるで川の流れに変化を与えるために、誰かが造ったように見えた。私が木の幹の隙間から眺めた時、沈んでいる倒木の脇で波紋が広がった。もしやと思って注視していると、再び波紋が広がった。何かが水面で餌を食べている。

私は木の陰に身を隠すと、フライを引き寄せた。水面で食べているのだから、ドライフライが良いに違いない。私はストリーマーを外すと、ホワイトミラーを結び、土手の上から投げた。白いフライは良く見えた。倒木の上の水面を音もなしに滑っていく。同じことを数回繰り返した時、フライがバシャっと波紋の中に消えた。すかさず合わせると、黒っぽい魚がいきなり水面で飛び跳ねた。もんどり打って水面に落ちた所で私の目の前にぶら下がった。黒い斑点がいっぱい付いたニジマスだった。20cmを少し越えたくらいだったが、もの凄く太っていて元気な魚だった。忍野にはニジマスも居る。私が初めて釣った魚はこの小さなニジマスだった。

-- つづく --
2002年08月25日  沢田 賢一郎