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忍野編  --第54話--

イブニングライズ

最初に見たブラウンの姿が目に焼き付いて消えないと言うのに、それを遙かに上回る怪物を見てしまった。しかもその怪物はフライを二度も追った。そして小さいとは言え、ニジマスを一匹釣った。これで5月まで待つ必要の無いことがはっきりした。

私はどうすればあの怪物、忍野太郎と言う名を付けた巨大なブラウンを釣ることができるか、そればかり考えていた。ストリーマーを追ってきたのだから、それで釣れる可能性はある。しかし2回追っても食わなかったから、これ以上投げても無駄かも知れない。

日陰でライズしている魚を12番のドライフライで釣った。太郎もライズすることが有るのだろうか。あの小さなニジマスは日陰になっている場所でライズしていた。それ以外の明るい場所でライズしていた魚を見なかったから、暗い場所でないとライズしないのかも知れない。太郎の居場所は一日中太陽が照りつける明るい場所だ。あの場所を離れないとしたら、陽が落ちて暗くなった時しかチャンスがない。そうだ、きっとあのイブニングライズの時間が良いに違いない。
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ファンウィングを持った6番のドライフライ。太郎には同じサイズのホワイトミラーを投げた。

当時の私は未だイブニングライズという現象について、幾らも理解していなかった。養沢や丹沢で釣っていると、夕方、フライが見えなくなる頃になって、急に魚が釣れ始めた経験を何度かした。私はフライが見えなくなると、さっさと川から上がったのに、以前から釣っている人達は一時間も遅れて帰ってきた。それを見て私も真似をしてみたのだが、確かにフライが見えなくなっても魚が釣れた。あの辺りにフライが有るはず。そう思って暗い水面を見つめていると、バシャッと白い飛沫が上がる。合わせるとニジマスが掛かっていた。それも、昼間魚が全く見えないつまらない場所でだ。

太郎を釣るにはこの方法しかないだろう。私は次第にそう思うようになってきた。しかし問題が幾つもあった。養沢は狭いから良いが、忍野はそれよりずっと広い。あの距離でフライが見えるだろうか。普段使っている12番のドライフライを、あの巨大な魚が食べるだろうか。私の持っていたストリーマーは良さそうに見えたが、浮いてくれない。今から思えばおかしなことだが、ドライフライでなければイブニングライズの釣りが出来ないと信じていた。それ以外のフライのことなど、眼中になかった。
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昼間、渓流で釣れれば姿の美しいヤマメが、忍野で釣れると、ただの稚魚に見えた。

特大ドライフライ

私は太郎のために特大のドライフライを作ることにした。6番のフックに白のファンウィングを持ったホワイトミラーを巻き上げた。完成したフライはまるで紋白蝶のようだった。これなら暗くなっても、離れていても良く見えるに違いない。ハックルを5枚も巻いたから、簡単には沈まないだろう。余談だが、このフライの改良型は4年後、北海道のイワナ釣りで抜群の成績をあげ、シルバー・フェアリーという名前で復活することとなる。

残るは2号のリーダーで持ちこたえることができるかどうかだ。あんな大きな鱒を釣ったことも針にかけたこともない。一体どれほどの強さだろうか。体重は推定5kgくらいありそうだ。これはもう心配しても始まらない。大きな川ではないから、いざとなったら水の中に入って追いかけるしかないか・・・。

5月に入って直ぐ、私は3人の友人と共に勇んで出発した。もっと早く来たかったのだが、季節外れの嵐が何回もやって来て出鼻を挫かれてしまった。目的地は忍野だったが、夕方の釣りをするのに朝から出掛けても仕方がない。我々は先ず南アルプスから流れ出る富士川の支流でヤマメを釣り、午後から忍野に向かうことにした。

忍野は少しばかり見ないうちに景色が随分変わっていた。裸の枝と枯れた葉ばかりだった両岸に、新緑の香りが満ちていた。昼過ぎに到着してから、私は彼等を連れて忍野のほぼ全域を歩いた。

上流部の浅い瀬で小さなニジマスを一匹釣り、自衛隊橋に戻って下流をながめていると、水面を黄色い物が幾つも流れている。何だろう。まるでミニチュアのヨットのようだ。その内の一つがパタパタと飛び上がった。カゲロウだ。それも随分と大きなカゲロウだ。そうか、いよいよメイフライが羽化する季節になったのだ。
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ダンもスピナーも抜け殻も、夥しい数のメイフライが川面を流れた。しかし忍野の鱒はそんな物に関心がないようだ。

我々は橋の上から夥しい数のメイフライが流れていくのを、期待をもって眺めていた。大型の鱒がそれを見て一斉に飛びつくはずだ。

暫く眺めていたが、ライズは起こらない。どのメイフライも無事に下流に流れて行くではないか。どうしてだろう。大きくて柔らかくて、美味しそうに見える。それがこんなにまとめて流れているのだから、鱒にとっては千載一遇の好機ではないか。

30分以上に亘って見続けたが、見るからに小さな鱒の子が一度だけそれに飛び付いたのが見えただけだった。我々はすっかり落胆した。まるでこの川には鱒が居ないように見える。

私だけはそれまでに数匹の大物を目撃していたから、この忍野に鱒が居ることを、勿論疑っていなかった。けれども、少しばかり心配になってきた。御馳走と言われている本物のメイフライがこんなに多く流れていると言うのに、鱒がそれを食べない。本物を食べない魚が、私の巻いた拙いフライを食べるとは思えない。

赤くなった太陽が雲間に沈むと、辺りは急に暗くなった。時々涼しい風が吹いてくる。あれほど沢山流れていたメイフライも、ほんの僅かしか見えない。何だか一日がすっかり終わってしまった気分だ。

我々は夕焼けに向かって川縁を下り、一番下流のプールに向かった。私の今日の目的地である。
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5月、新緑の忍野。水が減るとどちらが上流だか判らないほど静かだ。

炸裂

私は自分が残した足跡を辿って芦の原を越え、水際に立った。安全にキャスティングできるよう、背の高い枯れた芦を予め数本折っておいた。対岸には勿論あの薔薇の株がある。友人達はそれぞれ30mほど下流に散った。

やけに静かだ。対岸の林でアカハラがさえずっている。直ぐ近くの藪の中をウグイスが地鳴きしながら通り過ぎた。それが途切れると、周囲が沈黙に包まれる。このまま暗くなって、今日一日が終わってしまうのだろうか。

静まりかえってしまったからと言って、他に移動するあてもない。私はかれこれ30分以上も芦の中でじっとしていた。いよいよ暗くなってきた。空が反射している水面だけが、鉛色に光っている。

その時、下流から何かが飛んできた。私の前を通り過ぎて上流に向かっていった。蛾のようだった。続いてもう一匹。良く眼を凝らすと、対岸側にも何匹かが飛んでいる。トビケラだ。鮎釣りをしていると、釣りを終えて宿に帰る頃に良く飛び回っていた大きなトビケラだ。未だ5月になったばかり、それにこんなに海抜の高い所で、どうしてこんなに沢山いるのだろう。

その不思議な光景に見とれていた時、バシャっという水音が聞こえた。対岸の薔薇の際だ。私は息を潜めて見つめた。少し時間を置いて、またバシャ、バシャッと2回飛沫が上がった。遂にイブニングライスが始まった。

私は改めてフライを見直すと、ラインを引き出した。昼間と違って、リールの音がびっくりするほど大きく聞こえた。競技開始のファンファーレを聞いている気分だった。

-- つづく --
2002年09月01日  沢田 賢一郎