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忍野編  --第57話--

初めてのブラウン

選んでボックスから取り出したフライだったが、結んでみると不安になってきた。それまで使っていたフライとは全く異なる形と色をしている。どうしようか、やはり白いフライに戻そうか。しかし白いフライへの反応が悪いことはこれまで何度か経験した。悩んでも仕方がない。今日は場所もフライも何もかも新しくしてみよう。そう決めた時、辺りはすっかり黄昏の光に包まれていた。

下流からセッジが飛んできた。一匹、二匹。上流からもリズミカルに羽を振るわせながら飛んできた。その数が急に増えたと感じた時、目の前でバサッと低い音が聞こえた。波紋がプールの真ん中で広がっている。しめた、ここには魚がいる。

私は慎重にフライを投げた。大きくて派手な色のフライなのに、水に落ちると微かにしか見えなかった。ライズの有った付近で流れが巻いているため、フライがうまく流れない。フライは下流に向かっているのに、ラインが手前に流れるものだから、フライは直ぐにリーダーに引かれて流れの中で止まってしまった。

不味い、もう一度投げ直そう。そう思った時、フライの有った場所で飛沫が上がった。出た!私は咄嗟にロッドを持ち上げた。微かな手応えが有ったが、何も掛からなかった。おかしい、どうして掛からなかったのだろう。私はフライを調べようとして愕然とした。糸の先に結んだはずのフライが無い。この大事な時に、合わせ切れしていたのだ。

魚が確かにフライをくわえた喜びと、強すぎる合わせで、みすみすそれを逃してしまった悔しさが入り交じって、頭の中は真っ白。まるで体中が心臓になったかのように息苦しかった。

確かもう一本有ったはずだ。私は震える手でフライボックスを開き、同じフライを摘み出した。良かった。今度は失敗しないぞ。

私は切れたリーダーの先を掴んで、そのフライを結ぼうとした。その時、目の前でガボッという音と共に大きな波紋が広がった。少しばかり落ち着きを取り戻していたのが、その音を聞いただけで、再び頭に血が上ってしまった。
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夕方になると、何処からともなく姿を現すブラウントラウト。天気の良い昼間に良いサイズが釣れることは、珍しかった。

打ち出の小槌

私は必死で結び終えたフライを、今し方ライズの有った場所へ投げた。流れを横切って真横に投げたフライが下流に流れ切ろうとした時、バシャッと言う水音と共に波紋が広がり、フライが消えた。私は強くなり過ぎないよう、慎重に合わせた。

私が軽く持ち上げただけで、ロッドは大きくしなったまま動かなくなった。一瞬の間をおいて、ゴン、ゴン、ゴンと力強い振動と共に、張りつめたラインが動き出した。

私の立っている場所の正面がこの辺りで一番深かった。魚はその深場に向かって頭を振りながら潜り始めた。ロッドが今まで見たこともないほど大きくしなっている。気のせいか、ニジマスの引き方と違うようだ。

どのくらいの大きさだろう。少しばかり余裕ができると、魚のサイズが気になり始めた。養沢や丹沢で釣った鱒より大分大きそうだ。そうこうしている内に、潜り続けていた魚が急に目の前の水面に浮き上がった。夕方とはいえ、未だ随分と明るかった。私の目に、黄色味がかった脇腹に、黒い大きな斑点のある魚が映った。ブラウンだ。遂にブラウンを釣った。私はすっかり興奮していたが、引き上げた魚が意外に小さいのに驚いた。引きの強さからして、かなりのサイズかと想像していたのに、目の前の魚は40cmほどであった。

私はその魚からフライを外すと、素早く水に浸けて洗った。糊で固めたような羽の欠片は、再び綺麗なフライに生まれ変わった。しかしもう浮かすことはできないだろう。私はそのフライを今までより少し下流側に投げた。一匹目とファイトしている最中に、その辺りでライズが有ったのを見ていたからだ。
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1970年7月。まっすぐな流れが急に曲がりくねるので、S字と呼んだポイント。左手に生えている鬱蒼とした木にオバケの木という名を付けた。

急速に暗くなってきたせいもあったが、案の定、投げたフライは全く見えなかった。しかし私にはフライを交換する気は毛頭なかった。何しろ初めてブラウントラウトを釣り上げてくれたフライだ。見えなくても、浮いてくれなくても、きっと何とかなるだろう。それ以外の考えが浮かばなかった。

3回ほど投げたと思う。下流に流れきったフライがリーダーに引かれ、流れを横切っているのが判った。鉛色に鈍く光る水面に小さな三角の波ができている。それを目で追っているとき、大きな波紋が広がった。魚がフライを捕らえたに違いない。私はそう信じてロッドを持ち上げた。同時にドスンと言った重い手応えが伝わってきた。先ほどの魚より大きいのがすぐに判るほど、魚は激しく頭を振りながら同じように私の方に近づき、そして目の前の深場に潜っていった。

魚の引き方はそっくりだったが、強さが違っていた。これは大物だ。幸い魚はひたすら潜り続けるだけだったから、私も幾分か落ち着いてファイトすることができた。けれども魚の力はなかなか衰えない。5分以上経ってやっと浮上してきたときには、暗くて魚の姿がよく見えなかった。私はネットを持っていなかったため、岸際で何回か魚を掴み損なった。手の平からスルッと抜けるたびに冷や汗がでる思いをしたが、ようやく芦の生えた岸にずり上げた。

見事なブラウンだった。長さは50cmを僅かに下回るくらいだろう。淡い色の脇腹に黒と赤の大きな斑点が鮮やかだった。

ものは試し

夢を見ているような気分だった。ずっと釣れなかった憧れの魚が2匹も釣れた。実際に釣ってみて、それが想像していたより美しく、力の強い見事な魚だったことが判った。

私はブラウンの口からフライを外した。はっきりと見えなかったが、フライはべとべとの小さな固まりとなっていた。
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1970年.ブラウントラウトは未だ幻の魚だった。

フライをもう一度洗い終わると、私は立ち上がって目の前のプールを改めて見直した。奇跡のようなイブニングライズが終わり、辺りはすっかり暗くなっていた。水面だけが鈍く光っている。すっかり静まりかえった水面を見ていると、今まで続いていた騒ぎが嘘のように思えてくる。

私は夢を叶えてくれた大切なフライを仕舞うため、ハサミを取り出したが、それをポケットに戻した。微かに光る水面を見ている内に、もう一度フライを投げてみたくなったからだ。

このフライはもう浮かないし、もし水面に有っても、この明るさでは何も見えないのは判りきっていた。しかし二匹目だって似たような状況で釣れた。イブニングライズは終わってしまったが、万一、魚に食欲が残っていれば、何かが起こらないとも限らない。

私はもう一度リールからラインを引き出すと、感を頼りに対岸に向けて投げた。対岸までは幾らもない。フライは恐らく護岸された岸すれすれに落ちただろう。ロッドの先から延びているラインが微かに見えた。それがゆっくりと下流側に向きを変え、止まった。フライは二匹目を釣ったときと同じ場所を流れていたはずだ。

同じことを二回繰り返したが、何事も起こらなかった。目の前のプールの開きは、もう少し下流側に延びている。そこに届く長さのラインを投げると、間違いなく対岸にぶつかってしまうだろう。私はリールから更にラインを引き出すと、対岸の下流側に向けて投げた。

-- つづく --
2002年09月22日  沢田 賢一郎