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高原川編  --第74話--

弾けるライズ

それから3週間近く経った7月の末、私は高原川の支流へイワナ釣りに出かけ、その帰りに栃尾に寄った。狙いは勿論、あの岩盤の淵で消えたヤマメであった。栃尾で定宿としていた宝山荘に寄って、主の下毛浩二氏に尋ねると、その後、岩盤の淵で大物を釣った話は聞いていないと言うことだった。未だ釣られていないのは良いことかも知れないが、他の場所でも近頃めぼしい釣果がないという。それが気になるところだった。
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高原川に流れ込む多くの支流が、イワナ釣りの名場所となっている。

高原川は雪代が収まってから暫くの間、谷間は豊富な水に潤される。セッジのハッチが増え、魚はみるみる成長する。一年中で最も良い時期だ。ところが梅雨が明けると、川は一転して減水に向かう。水も魚の数も、そして餌までが急に減り、一挙に難しい川になってしまう。川は既にその時期に入ってしまった。

状況が芳しくないのは聞くまでもないことで、それだからこそ昼間は源流のイワナ釣りに出かけていたのだ。しかし夕方、あの心ときめく時間帯になると、性懲りもなく本流に戻ってしまう。

魚が減ったとは言え、居なくなった訳ではない。ただ水位が下がって水温が上昇するため、一日のうちほんの短い時間しか出てこない。それだけでも釣り辛いのに、この頃まで残った魚は釣り人側から言わせれば百戦錬磨の強者で、例え居場所を突き止めても、簡単にフライをくわえるような魚ではない
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水面を美しく流れるワイルド・キャナリー。見ているだけで心が安まる。

この頃、高原川に来る釣り人の数はかなり多く、春は朝から晩まで大勢の人が入れ替わり立ち替わり糸を垂れる。フライ、ルアー、餌、テンカラと、それは賑やかだった。栃尾周辺のように誰もが入り易い所など、良いポイントに住んでいる魚なら少なくとも毎日50回以上、針の付いた危険な食べ物を見ている。一ヶ月なら1500回。7月まで生き延びた魚はいったい何千回見ているのだろう。その間にうっかり飛びついたことが数回あるとしても、逃げおおせている運の良い魚だ。一筋縄ではいかない。

この季節になると、地元の釣り人の間で何匹かの魚が話題になる。居るのは判っているのだが、誰も釣れない魚たちだ。そうした魚はほとんど例外なく、地の利と言うか水の利を得た場所に潜んでいる。流れが余りに複雑で、ドライフライを投げると沈むか、必ずドラッグが掛かってしまう所だ。只でさえ気難しい魚がそういう場所に入ってしまったら、何ともならない。ほとんどお手上げと言って良い。
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成長するにつれ、ヤマメの個体差が顕著になってくる。

夕方まで暫く時間があったので、私は道観松から入り神坂堰堤に向かって上った。この付近は川が二つに分かれていて、渇水で少ない水が更に乏しくなっていた。私はどちらかと言えば好みである山側の流れを選び、4年前、初めて来た時と同じように14番のワイルド・キャナリーを結んで釣り上った。

平水なら魅力的なポイントが切れ目なく続くコースだが、今は所々にそれらしいポイントがあるだけだった。春先のように多くの魚が居る時なら、この少ない水でも充分楽しめるだろうが、今の状況では望み薄だった。それでも幾つかの水通しの良い落ち込みでヤマメが飛び出した。15cmほどのサイズからして、この春放流されたものに違いなかった。

7月も終わりに近づくと、日が暮れるのが早くなる。前回のように同じような明るさの中で2カ所を釣るのは無理だ。どちらか一方を重点的に釣るべきだろう。さて、この水位では岩盤の淵か、神坂堰堤か、どちらに軍配が上がるだろうか。そんなことを考えながら釣り上がって行くと、めぼしいポイントが少なかったせいか、私は予定より早く岩盤の淵に着いてしまった。暫くの間、何もせずに待つのは面白くない。私は様子見方々、ドライフライを結んだまま更に釣り上がることにした。
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流れを飛び出すヤマメ。40cmにも満たない魚とは思えないファイトをする。

水溜まり

肝心の岩盤の淵はすっかり変わっていた。水量が凡そ半分になってしまったおかげで、開きの部分は水溜まりのようであった。この前に尺ヤマメを釣り上げた場所は、今、あの忌まわしいウグイが釣れそうなくらい淀んでいた。その代わり流れ込みの近くに美しい筋が生まれていた。もし今でもこの淵に魚が居るなら、きっとここで出てくるに違いない。そう思えるほど魅力的だったが、慎重に流したドライフライには何の反応もなかった。

私はそのまま堰堤に向かった。ところが少し歩いたところで、二人の釣り人の姿を見つけた。下段の落ち込みの両岸に一人ずつ陣取っている。その様子からして、暗くなるまで動きそうもないように見えた。

仕方ない。今日は堰堤を諦めなければならない。さてどうしたものだろう、私は瀬の中の岩に乗って辺りを見回しながら考えた。岩盤の淵から堰堤までの区間は急な斜面に大岩が点在している。増水時は泡だらけで釣りにならないが、この渇水時には水通しの良い魅力的な落ち込みが連続している。私は時計と空を交互に眺め、そのままドライフライで、と言っても10分ほどだが、釣り上がることにした。飛んでいるセッジの数は前回とは比較にならないほど少なかったから、ウェットに換えるのはもう少し後で良いと思えた。
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ファイトの激しさ故、フックが外れることが増える。

堰堤が間近に迫った所に、小型トラックほどの大きさの岩がある。その岩の下から湧き出るような流れが私は好きだった。この区間で最も多くの魚を釣ったことのあるポイントだった。その流れ込みにワイルド・キャナリーを投げ込んだ。

ワイルド・キャナリーはスペント・ウィングを大きく左右に広げ、バランスをとりながら揺れる水面を滑ってきた。その姿が私には如何にも可愛らしく、水中から見るものにとって刺激的だろうと思え、同じ場所を3回流した。気が付いた時、一匹のヤマメが僅か数センチの距離からフライを見つめていた。そして30cmばかりフライと一緒に流下した所で、大きな口を開け静かに飲み込んだ。尺ヤマメと呼ぶには少し足りなかったが、綺麗な雄のヤマメだった。

一匹釣れたところで私は下流に戻ることにした。岩盤の淵に着いてみると案の定、堰堤下に居た時よりずっと暗かった。丁度良い時間だ。私はワイルド・キャナリーを仕舞うと、ワレットから新しいリーダーを取り出して結んだ。水量が少ないのでどれを使うか迷ったが、結局いつも通り7フィート半の2Xの先に8番、70cmほど離したドロッパーに6番のグレートセッジを結んで置いたものにした。
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既に成長のピークを過ぎたヤマメ。若干細くなっている。

セッジは少しではあるが飛んでいた。もっと増えると思っていたら、逆に時間と共に減ってしまった。セッジが多ければ必ず釣れるものではないが、少ないのは寂しいものだ。丁度良い時間になっても淵は静かなままだった。これ以上待つ必要はないと思える時間になって、私は釣り始めることにした。

最初はアップストリームに投げ、そのまま下流まで流す方法を採った。流れ込みから慎重にフライを流し始め、静かにゆっくりと下流に移っていった。水が少ないから辺りが静かだ。小さな音でも聞き逃すことはない筈だが、ライズらしい音を何も聞かないまま、私は狭くなった淵にフライを流しきってしまった。

川面の色がいつもと違うと思ったら、明るい月が堰堤の上に懸かっていた。私が流れ込みに戻ろうと歩き出した時、蒼くぼぅっと霞んだ川原を何かが横切って後の山へ消えた。狸か狐か、大きさから言って、カモシカや熊ではなさそうだ。ここでは以前にも数回、似たような獣を見たことがあった。彼らの通り道になっているのだろう。

流れ込みに戻ると、辺りに獣の臭いが漂っていた。高原川の周辺では時々あることだが、一人の時や夕暮れ時は余り気持ちの良いものではない。ライズも無いし、今日は諦めるか。私はだいぶ明るさを増した月に目を遣りながら、リーダーを外そうとした。
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大型化するにつれ、ウェットフライで釣れる魚が増える。

ピチッ。

あの音が聞こえた。私は一瞬、凍り付いたように全ての動作を止め、全身を耳にして淵を見渡した。沈黙の数十秒が流れた。気のせいではない。あれはこの前聞いた音と同じだ。身動ぎ一つせず淵を見つめていた私の前で、再びピチッと言う音と共に、月の光を反射して小さな輪が広がった。流れ込みの少し下、流れが丁度緩くなる辺りだ。私の立っている水際から僅か5m先にある対岸の岩すれすれで起こった。

私はフライを投げようとして止めた。この流れ、あの小さなライズ。リードフライに結んである8番のフライは大き過ぎる。私はライズの起こった場所をもう一度しっかり見据えると、光が淵側に漏れないよう後を向き、ベストの内側でライトを付けた。そして必要最小限の明かりで、リードフライを10番のグレートセッジに換えた。こういう時のために、私はライトに使い古したバッテリーを入れてある。そのためフライを交換し終わっても、明かりで目が眩むことはなかった。

傷跡

ライトを消すと、私は目を慣らすため3回ばかりゆっくりと瞼を閉じた。フライを交換し始めてから2回、あの小さく弾けるライズがあった。理想的なタイミングだ。私は慎重にフライを送り込んだ。フライがライズのあった場所から大きく外れるまで待って、ラインをそっと引き上げると、同じように投げ直した。5回ばかり投げたところで、私はフライを掴んで待った。魚はライズを止めてしまった。

私は石のように水際に立っていた。目の前に飛び出てくる獲物を待って、草むらに伏せている猛獣のような気分だった。5分近く経ったろうか、「ピチッ」またあの音がした。私は大きく深呼吸をすると、少し間をおいてから慎重にフライを流し込んだ。
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セッジのハッチがピークを過ぎると、再び小さなフライに対する反応が良くなってくる。

ゴツン。小さいがはっきりした当たりだった。ゆっくり持ち上げたロッドが途中から引き込まれた。魚はいきなり下流に向かって走り、途中で水面を割って激しく暴れると、今度は淵の底に潜って張り付いてしまった。私はゆっくりと魚の真横に移動し、疲れて浮き上がるのを待った。やがて淵のそこから銀色に揺れ動くものが上がってきた。水面で一瞬止まったところを、私はネットで掬った。

ヤマメは33cm。口の片方の隅に傷跡が残っていた。もうすっかり治っていることから、この魚が糸を切って逃げたのは2ヶ月以上前だったろう。私がこの前釣り逃がした魚と同じかどうか、それは魚に聞いて見なければ判らない。どちらにせよ、記憶に残る手強い相手であることは確かだった。私にとって、そういう魚と巡り会えたことこそ幸福だった。そのおかげで、グレートセッジというフライを誕生させることができたのだから。

-- つづく --
2003年12月07日  沢田 賢一郎