www.kensawada.com
高原川編  --第78話--

ダンケルドのオレンジ

1987年の8月半ば、丁度旧盆の最中だった。私は岡崎市の平岩氏に案内されて、木曽川の源流に出かけることとなった。平岩氏とはサクラマスの黎明期から一緒に釣りをして、すっかり気心が知れていた。(第44話第62話参照)
ff-78-1
ローヤル・コーチマン。好き嫌いはともかく、その配色は魚を狂わせる。

目的地は木曽川の大支流、王滝川の源流だった。私はずっと昔のことだが、王滝川に一度だけ出掛けたことがあった。その時は木曽川の本流から御岳湖を超え、大支流であるウグイ川とその周辺でアマゴを釣った。今回の目的地はウグイ川から遙か上流、王滝川の水源にある三浦貯水池に流れ込む沢だった。

王滝川に沿って上るには道のりが長すぎるため、我々は岐阜県の加子母村からバイクで山越えをし、一気に源流へ向かうことにした。山越えは楽しかった。標高1600mの鞍掛峠はブナの原生林に囲まれ、朝は8月とは思えないほど涼しかった。峠を越え長野県側に入ると、一転して周囲に檜の森が目立つようになる。漸く木曽にやって来た実感が湧いてきた。
ff-78-2
ダムの上流は、暫くの間なだらかな渓相が続いていた。

三浦貯水池に着いた我々は、ダム湖を大きく迂回して、目的地である本流の水源に向かった。イワナとアマゴが混棲している王滝川にダムを造ったため、そのダムの中で成長した魚が秋になると沢に遡上する。それを釣ろうというのが我々の計画だった。

朝9時頃だったと思う。我々はダムの流れ込みから遡行を開始した。沢はやや渇水気味で、只でさえ余り多くない水量が、余計に乏しく思えた。川は暫くなだらかで単調な流れが続いていた。石が小さく、遡上した魚が止まるような場所は全く見あたらない。やがて両岸が狭まってくると大きな石が増え始め、やっとポイントらしい流れが現れだした。しかし魚の気配は全く無かった。

海抜が高いとは言え未だ8月の半ばだ。私はドライフライでも充分可能性があると思ったが、ウェットフライを結ぶことにした。こんな時2人で釣ると便利だ。平岩氏はドライフライを結んでいたから、2種類のフライに対する魚の反応が直ぐに判る。
ff-78-3
小さな滝が現れた。落ち込みの対岸側を釣る平岩氏。

秋になって下流から遡上する魚はドライフライでもウェットフライでも、幾分大きく派手なフライを好む傾向がある。私が選んだフライはドロッパーに6番のパーマシェンベル、リードフライには同じく6番のダンケルド、それを7フィート半の2Xのリーダーに結んだ。共に飛び切り派手な色合いのフライである。数多くといえるほど経験を積んではいなかったが、それまで秋口の大ヤマメをこの2種類のフライの他に、ローヤルコーチマンとクィーン・オブ・ザ・ウォーターズで釣ったことがあった。

渓相が良くなったにも拘わらず、相変わらず魚の気配は無かった。ドライもウェットも、触れるものがないままひたすら流れを下ってくるのみであった。
ff-78-4
秋なのに身体の半分に銀色の鱗。痩せているが、ダムから遡上した魚だ。

小滝

やがて川が大きく直角に曲がったと思ったら、その先に小さな滝が現れた。落差は1.5mほどしかないから、増水さえすれば魚は簡単に超える高さだ。しかしその落ち込みはなかなか魅力的だった。両岸から大きな岩がせり出しているため、小さな滝壺であるにも拘わらず、魚に絶好の隠れ家を提供している。これなら遡上する魚が増水を待つにも好都合だ。

最初に平岩氏のドライフライがその溝のような滝壺を通過した。2回、3回と綺麗に流れてくるが、何の反応も無い。ここまで魚の気配がなかったとは言え、このポイントも空のようではこの先が思いやられる。今の水位ならここはダムから遡上した魚にとって魚止めではないか。
ff-78-5
オレンジのフライとして真っ先に選ぶのが、このダンケルドだ。

その後数回に亘ってフライを流したが、何の変化もなかった。私は彼と交代してウェットフライを流してみることにした。先ずドライフライと同じように落ち込みの中央を通してみた。3回投げたが、何の反応も無かった。

この落ち込みが空っぽなら、当たりが無いのは判る。しかしもし魚が居るのに反応が無いとすれば、魚は水の落下地点に広がった泡の下に入って居るとしか考えられない。何とかそこにフライを送り込もう。私は落下する水目がけてラインを伸ばし、リーダー全体をその中に叩き込んだ。
ff-78-6
体型や尻尾の形が、川育ちとは随分違う。

フライラインの先端が水の落下地点に浮いたまま止まっている。2本のフライは7フィート半のリーダーと一緒に小さな滝壺の奥まで辿り着いているはずだ。暫く待つうち、フライラインがゆっくりとこちらに向かって流れ始めた。川底まで沈んだフライも一緒に流れて来るはずだ。これで当たりが無ければ諦めるしかない。魚は居ないのだろうか。

ゴツンと鋭い当たりで私は我に返った。ロッドを起こすのと同時に、魚は落ち込みの中を右へ左へと走り回った。重くはないが、なかなか強い引きだった。私は慎重に魚を引き揚げ、水面に出たところをネットで掬った。オリーブ色がかった褐色の肌に、小さいが鮮やかな朱点が散っていた。アマゴだ。色だけでなく、顔つきも形も、他の川の魚とかなり違っていた。この地域独特のスタイルなのだろうか。細身だったので大きく見えなかったが、体長は36cmあった。
ff-78-7
一見ヤマメのようだったが、鱗に隠れて小さな赤い斑点が見られた。

木曽イワナ

漸く一匹の魚と出会うことが出来た。ここから上は魚が少しは顔を出すだろう。上流を見渡す限り、渓相も良さそうだった。

期待に胸を膨らませて遡行を続けたのは、それから30分余りだった。渓相は下流域に比べ、確かに魅力的であったが、魚は相変わらずちっとも顔を出そうとしなかった。釣り始めて3時間近く経過した時、大きな滑滝が現れた。落差は5mほどだが、ダム湖からの遡上魚にとっては間違いなく魚止めであろう。と言うことは、我々がこの沢をこれ以上遡行しても、下流から遡上した大アマゴに遭遇する可能性が無いことを意味する。我々はその滑滝を見ながら持参した昼食を摂ることにした。
ff-78-8
滑滝を越え、上流を目指す。

ここに来るまでの間、数カ所で人の足跡と踏まれた草を見つけた。今は8月の半ばだから、遡上のピークには未だ少し間がある。けれども早すぎると言うほどではないはずだ。我々はその日誰とも遭遇しなかったが、恐らく遡上魚を狙ってこの沢にやって来る釣り人が、少なからず居るのだろう。我々にとって、タイミングが少し悪かったかも知れない。

そんなことを話しながら昼食を終えたが、引き返すには未だ少し早すぎる。大河川をこんな奥まで遡る機会などそう滅多にあるものではない。折角だからもう少し上流まで行って見ることにした。
ff-78-9
まるで山椒魚のようなイワナ。

最初の滑滝を超えたと思ったら、行く手に次の滑滝が待ち構えていた。なだらかで、超えるには何の問題も無かったが、魚が住むのに決して楽な場所ではない。そのうちに渓相が良くなることを期待して、更に遡行を続けたが、相変わらず滑滝ばかりで、奥まで行っても良くなりそうには見えなかった。

もう引き返そうかと思った時、私は行く手に現れた次の滑滝の手前に僅かばかりの溝を見つけた。あそこを最後にしよう。私は溝の規模には少々大きすぎると思ったが、それまで結んでいたフライをそのまま投げた。静かな水面にフライが落ちると同時に、波紋の中に何かが映った。
ff-78-10
蛇のような表情、滑らかな肌、鮮やかな赤、この谷独自のイワナだ。

フライを捕らえに何かが出てきたことは確かだ。私が一呼吸置いて軽くロッドを差し上げると、クン、クンと大人しい引きが伝わってきた。何だろう。魚であることに違いなさそうだ。私はラインを手繰りながら水際に近づき、リーダーを持ってフライをくわえている魚を持ち上げた。それは頭が丸く、一見ハゼかカジカのように見えた。しかし水際に横たわった姿を見た時、私は思わず声を出した。

「綺麗だ」オレンジ色でなく真っ赤な斑点が目に入った。これ程鮮やかな朱点を持ったイワナを見たのは初めてだった。このイワナはこの特殊な環境によって類い希な色を持つようになったのだろうか。他の地域との交流が絶えてしまったに違いない。私はシャッターを押すのも忘れてカメラのファインダーを覗いていた。

-- つづく --
2004年01月11日  沢田 賢一郎