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高原川編  --第82話--

黒い星

私はゆっくりと身体を動かし、一歩だけ水際へ近寄った。それだけで水中の様子が更に見易くなった。うっすらとしか見えないが、大きな石が幾つかあるのが判る。魚はその間から浮上したようだ。最初にイワナを釣ったときも、この魚は浮上したかも知れない。そうであれば3回、今だけなら流れたフライに2回反応したことになる。
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残ったポイントを探してドライフライを流す加藤庄平。

私は畳みかけるようにフライを投げ続けることを考えた。しかし失敗すれば魚の好奇心が失せてしまう。次にこの谷を訪れる時に釣ろうと思っても、それまでこの魚が同じ場所にとどまっている可能性はほとんど無い。安全のため、少し時間を置いてからもう一度フライを投げてみよう。私は静かにその場所から離れた。

川が回復したせいか、魚は前回よりずっと増えたようだ。降下点まで釣り上がる間に私は数匹のイワナとヤマメを手にした。しかし最初に釣った尺イワナより大きい魚は居なかった。どうも上流に向かうにつれ、魚のサイズが小さくなるように思えた。
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黒い星を散りばめ、すっかり渓流の住人となったニジマス。

時計の針は午後3時を指していた。あれから30分経った。そろそろ戻って良い刻限だ。

私は川原を歩いて、もう一度下流の橋に向かった。その間、私の頭の中は投げるフライのことで一杯だった。同じフライを使うべきか、或いは全く違うフライに代えるべきか。どちらでも良さそうに思えたが、間違えば失敗する可能性も拭えない。
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ダムによって無惨な姿になった神通川上流。しかしダムのない時代にここを遡行するのは大変だったろう。

岩盤に沿って流れるその淵に着いたとき、私は未だ決めかねていた。淵の流れ込みは何事も無かったように流れている。あの波の下に得体の知れない魚が潜んでいる。彼奴は少なくとも2回反応した。それなのにフライを捕らえなかったのは何故だろう。

一投目のフライを捕らえようとしたとき、横から現れたイワナがフライを横取りしただけでなく、目の前で暴れ回ったため、すっかり嫌気がさしてしまったのか。それとも単にフライやその流れ方が気に入らないのか。

私は様々な可能性を考えてみたが、フライを代えることにした。あれから30分以上経過したとは言え、完全な仕切り直しとなる訳ではない。最初のイワナが居なかったら、彼奴は素直にアレキサンドラを食べていたかも知れないが、それは確かめようがない。その後2回反応したにも拘わらず、フライを捕らえるまでに至らなかったのだから、新しいフライをもう少し沈め、目先を変えて見る方法を選んだ。

フライボックスの内側に様々なフライが隙間無く並んでいる。困ったときと波に乗っている時とで、並んでいるフライが随分違って見えるものだ。今のようにフライの力にすがりたいと思うと、どうしても実績の高いフライに目がいってしまう。

グレートセッジ、ピーコッククィーン、ダンケルド、プロフェッサー、イエローダン、シナモンキングと眺め渡した所で、私は結局ピーコッククィーンを使うことにした。グレートセッジも考えたが、ボディハックルのあるパターンは、速く沈めるには不向きのため止めた。

ピーコッククィーンの8番がクリップの一列を占領している。私はその中からウィングが小さく、ハックルが少ないものを選びだした。3Xのリーダーに結べば、今まで結んでいたアレキサンドラの10番よりずっと速く沈んでくれるに違いない。
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傷ついたヒレが回復するまで、1年以上掛かったろうか。

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上流に向かうと、川は急に平坦になる。川底がすっかり元に戻るのに後一年くらい掛かりそうだ。

浮上

本当はもう少し時間を置いた方が良いと思うが、もうこれ以上待つわけにいかない。私は念のためリーダーの点検を済ますと、殊更ゆっくりとフライを結んだ。そして静かに流れ込みに近づいた。魚が何処にいるか判っているから、最も釣りやすい位置に立ち、慎重にフライを流れ込みに沈めた。

沈めて置いて、先程と同じようにロッドを上流に向け、ラインを張ってフライを浮上させた。

フライが流れている辺りの川底から黒い影が浮かび上がった。彼奴だ。少なくとも40cmはある。凄い奴が居たものだ。その影は現れたときと同じように、揺れもせず川底に消えた。

只でさえ緊張している所へ持ってきて、一投目から姿を現したのだから、喉が渇いて息が詰まりそうだった。ターンして水面に向かうフライを追って、彼奴も浮上したのだ。フライを捕らえる迄には至らなかったが、明らかにやる気満々と言った風だった。

彼奴は必ず食う。魚の動きから、私はそう確信し、更に1メートル近く上流に向け、フライを投げ直した。
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今度こそ。私はそう祈りながら慎重に間合いを計り、フライをターンさせた。黒い影が再び浮上した。そして水面の方に向き直ったと思ったとき、頭の付近が白くなった。彼奴が大口を開けたのだ。

フライフィッシングを行っていて、1秒、1秒がこれ程長く感じられる瞬間はない。まさか吐き出したのでは、と思い始める時になって、グンという重い当たりが伝わってきた。

私は寝かせていたロッドを大きくゆっくりと持ち上げた。ラインが張るのと同時に、パワースペイは大きく曲がるだけとなった。まるで根掛かりしたようだった。私は手を高く掲げ、ラインを張り続けた。
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魚の振動が伝わってきた。ゴトン、ゴトンと頭を振っている。もしやヤマメでは。ヤマメだったらかなりの大物だ。

魚は岩の間に張り付いて、梃子でも動かないように見えたが、暫く経つ内に川底を縫うようにして動き始めた。私は張りつめたリーダーが、根擦れを起こさないよう気を付けながら、魚の下流側に回った。流れ込みの周辺から引き離せば、底石が無いから安全だ。

暫く膠着状態が続いたが、魚は遂に岩場を離れた。よし、これで一安心と思った途端、魚は急に反転し下流へ走った。そしてリールから数メートルのラインを引き出した所で、水面を破って高く宙に舞った。

私は夢から覚めたように、呆然と波紋を眺めていた。大ヤマメではないかと期待していたのに。どうしてこんな所にニジマスが居るのだ。素晴らしいファイターであるニジマスを馬鹿にする気はないけれど、身体中の力が一気に抜けてしまうのを止めようがなかった。

そのニジマスは凡そ45cmほどの大きさだった。背中から脇腹にかけて無数の黒い星を散りばめていた。美しい姿をしていたが、ヒレに残った傷跡からして、1年、或いはそれ以上前に放流されたものだろう。この辺りの谷で見ることはなかったから、この魚もダムの放水と共に、むりやり渓流住まいを強いられてしまったに違いない。

-- つづく --
2004年05月16日  沢田 賢一郎