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高原川編  --第86話--

長棟の岩棚

笠谷で金色のイワナを釣ってから1年経った1986年の8月、私は加藤庄平と富山に向け、高原川沿いに車を走らせていた。神通川(高原川)は北陸を代表する河川の一つだけに、流れ込む支流の数も多い。笠谷の下流にはこのシリーズの第5話に登場した下佐谷があり、その下で有名な双六谷が流入する。

更に少しばかり距離を置いて跡津川、県境を越えて富山県に入ると、今回の目的地である長棟川が、これまで列挙した川と同じく右岸から流入する。同じと言えば、これらの川は全て上流に取水口がある。取水された水は下流で再び戻されることもあるが、本流や他の川に向けられてしまうことも珍しくない。笠谷の場合も、取水された水は一つ下流の下佐谷に放水されていた。
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取水口の直ぐ上から釣り始める。大岩がひしめくダイナミックな渓相だ。

取水されてしまうと水量は激減する。甚だしい場合、取水口の下流は水溜まりのようになってしまう。魚が居ない訳ではないが、やはり水量が多い、と言うより、自然の川を釣った方が気分がよい。そのため、沢に入るときは取水口から上流を釣るのが普通であった。

目指す長棟川の場合、取水口が随分と上流にあり、流域の大部分は水量が極めて少ない。下流から入ったのではアプローチが長すぎる。我々は本来の水量の川を釣りたかったため、山越えをし、いきなり取水口の上に辿り着く道を選んだ。

階段

神岡の町を抜け、跡津川を渡ると第80話に登場した茂住に差し掛かる。我々はそこで国道を右折し、茂住峠を目指して険しい山道を登り始めた。やがて岩だらけの尾根を越えると、道は長棟川の支流に沿って下り始めた。

本流に達する前に、林道は車両通行止めになっていた。我々は仕方なくそこで車を降り、身支度を済ますと、下流にある筈の取水口に向かって林道を下った。
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下流域の魚は岩の色を反映して、少し灰色がかっていた。

東側に延びているもう片方の支流と合わさって、谷は長棟川と呼ばれるようになる。支流がなだらかなのに対し、合流した後の本流は深いV字谷となっていた。谷の両岸は黒い岩肌がほぼ垂直にそびえ立ち、太陽の光も届かないように見えた。林道はその谷筋の絶壁に沿って設けられていたから、川を見るには路肩から恐る恐る真下を覗かなければならなかった。

暗い林道を歩いていると、突然白くて平らなコンクリートが目に入った。取水口に通じる階段だ。崖を降りなければならないと思っていた我々に、階段は大助かりだったが、忽然と現れた人工物に何とも場違いな感を拭えなかった。

谷底に降りると、金網で覆われた取水口があった。全てでは無いにしても、大部分の水がトンネルの中へ消えていく。下流には申し訳程度の水が流れているだけだ。

時刻はもう正午になろうとしていた。ゆっくり出掛けて来たのは、コースがそれほど長くないことが理由の第一だったが、万一、先行者が居た場合でも、朝からそれだけ時間を置けば、何とかなると思っていたからだ。幸い、辺りに人の気配は無かった。

8月の源流、しかもこの時期にしては充分な水が流れていたことから、私は10番のフックに巻いた黒のスペックルド・セッジを結んで釣り始めた。V字峡の底は陽当たりが悪く、そのうえ岩の色も暗かったが、さすがに10番のフライはよく見える。後は魚の登場を待つばかりとなった。
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取水口を保護するためか、堰堤が造られていた。

釣り始めて直ぐ、前方に堰堤が現れた。その直ぐ手前の流れにフライを載せたとき、泡の下からフライに向かってまっしぐらにイワナが浮上し、口をいっぱいに開いてフライに飛びかかった。

20cmを少し越えた小ぶりのイワナが、フライを頬張って糸の先にぶら下がっている。口からはみ出た黒いハックルが、まるで口髭のようで、何とも可笑しかった。

魚は居る。通い慣れた沢でも気になるくらいだから、まして初めての沢を釣る場合、魚の姿を見るまで不安なものだ。この谷を訪れる釣り人の大部分が、この取水口から釣り上がるだろう。そう思える場所で魚が出てきたのだから、堰堤の上はきっと楽しい流れが続いているに違いない。我々は期待に胸を膨らませていた。

左を巻いて堰堤の上に出ると、景色が変わっていた。両岸は相変わらず屹立していたが、川底が平坦になり、茶色の石が目立った。林道工事のせいで川底が埋まったように思えた。おかげで歩くのは楽になった。魚の密度が心配だったが、その不安を掻き消すように、堰堤の直ぐ上で元気なイワナが水面に浮かび上がった。

イワナは水面を泳いでゆっくりとフライに近づき、フライを飲み込んだ後も急いで反転することなく、静かに沈もうとした。沈めなかったのは、私がロッドを持ち上げたからだが、瀬の中を泳いでいるのに、まるで止水を泳いでいるように見えた。

フッキングした後も、魚は自分の身に何が起こったのか理解できずにいた。水際まで引き寄せた時、彼は初めて自分が置かれている状況に気が付き、急に暴れだした。こんな魚が見えるなら、条件として最高である。魚は食欲の固まりとなり、警戒心を何処かに置き忘れてしまったようだ。
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上流部は岩が茶色くなり、魚も赤身を帯びてきた。

フライに出てきた魚を、うっかり合わせ損なったりしようものなら、合わせに失敗した釣り人より、美味しそうな餌を取り逃がした魚の方が、余程悔しがっているように見える。もう一度フライを投げると、今度は決して逃さないと言わんばかりに飛び掛かる。

堰堤を越えてから、そんな魚が何匹も出てきた。本来こうした魚が見えるのは、6月か7月が多いものだが、8月になっても見えると言うことは、今日が余程良い日なのであろう。

跳躍

両岸が狭まっているため、水際から離れて歩くことが出来ない。我々は交互にフライを投げ、交互にイワナを釣り上げていった。500mほど遡行した所で谷は「くの字」に曲がっていた。岩壁の隙間は3mほどしかなく、そこに水が溢れている。勿論、岸と呼べる平地は無い。
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釣れる魚のサイズも形も似通っていた。

我々は流れの陰になっている左側の岩盤に沿って進んだ。鍵のように曲がっている際まで進んできたが、そこから先は流れが強くて進めない。対岸にはこの隘路を抜ける足場が有るのだが、渡ろうと思っても、岩盤から少し離れただけで押し流されてしまう。我々は背中の岩盤に足掛かりが有るのを利用し、崖を這い上がった。そして対岸にある足場の陰に向かい急流の上を跳んだ。

派手な水しぶきを上げた割には、簡単に事が運んだ。しかしもう少し水嵩があったら越えられない。やはりここを遡行するには、水量が減る8月まで待たなければならないだろう。この隘路を越えた直後が、その日、最も際だっていた。短い区間だったが、全てのポイントからイワナが浮上した。

ところが暫くすると、魚の数が急に減ったように思えた。何故だか気になったが、理由は直ぐに判った。林道が直ぐそばに見えたのである。水量の多い季節、上流から川に入り、この辺りまで釣り下る人が結構多いのかも知れない。

-- つづく --
2004年08月23日  沢田 賢一郎