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高原川編  --第87話--
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水溜まりのような淵に降り、下流に向かう加藤庄平

水溜まり

長棟川への2回目の釣行は翌1987年、1回目と同じく8月の初旬となった。魚の状態を考えれば、もっと早く出掛けた方が楽しいに違いない。しかし水量が減る前に谷に入れば、あの隘路を越えることが出来ない。それにもし遡行中に夕立でも降れば、切り立った崖で覆われたあの谷底から逃れる術はない。我々は1回目の経験を踏まえ、梅雨が明けて天気が安定し、川が渇水となるまで待つことにした。

前回と同様、我々はこの時も取水口を目指し谷底に降りた。水量は最初の時とほぼ同じように思えた。これなら遡行するのに問題なさそうだ。流れの様子を見ているうち、私は急に取水口の下流がどんな具合か知りたくなった。私は加藤庄平にその旨を告げると、一人で谷底を下った。

取水口の下流は辛うじて水が流れているだけだった。谷の様子を知るだけで良かったから、私はフライを投げなかったばかりか、わざと水際を歩いた。最初のカーブを曲がったとき、足下から黒い影が走った。こんな水量でもイワナが居る。

更に数十メートル下った所で、目の前に有るはずの川原が消えていた。どうやらその先は滝となっているようだ。私は慎重に水の落ち口まで進み、下流の景色を眺めた。

足下から3メートルほど下に、大きな水溜まりが広がっていた。その水面に僅かばかりの水が落下していた。上流で取水していなかったら、ここはさぞかし美しい直瀑であったろう。

両岸が一際狭まっていたため、水溜まりの岸近くは日陰だったが、陽の光が届いていた中央部は底までよく見えた。私は岩の上から、その水溜まりを注意深く見透かした。

落ち口の下で直ぐに1匹のイワナを発見した。30cmほどの大きさだった。私はそのまま視線を淵の隅々まで滑らした。水中が見える範囲だけで更に3匹のイワナを発見した。どれも同じくらいの大きさだ。

私は落ち口の岩に腰掛けると、フックキーパーに掛かっていたスペックルド・セッジを外した。そしてそのままロッドの先を下げ、リーダーの先にぶら下がっているフライを真下の水面に降ろした。
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淵の中にいたイワナはどれも30cmほどで、姿形もよく似ていた。

フライが水面に触れた瞬間、川底にいたイワナに電流が走った。イワナはヒレの白い縁取りを一層露わにしたかと思うと、一直線にフライに向かって浮上した。私はそうなることを想定して、フライを落とす位置を、私とそのイワナとを結ぶ線から外しておいた。

イワナがフライを見ながら浮上しても、フライの背後に私の顔が見えないようにしたのである。これについて、私は過去に何度か苦い経験をしたことがあった。

水中に定位している魚を発見すると、フライを自分と魚の間に落としたくなる。そうすればフライを見ながら、魚の様子を知ることが出来る。

ところが魚が真っ直ぐフライに向かうと、魚もフライの向こうに自分を見つめている視線を感じてしまう。あと一歩でフライに飛び掛かると言う所で、魚と目が合ってしまう。その瞬間、魚は身を翻して帰ってしまう。そんな経験を過去に何度かしたことがあった。
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下流側でライズしたイワナがフライをくわえた。

一本釣り

フライを浮かべた場所が良かったせいか、そのイワナは何の躊躇いもなくフライに近づき、大きな口を開けて飲み込んだ。私は魚をなるべく走らせないよう、さりとて水面で暴れさせないよう適度にいなしながら、タイミングを計って水面から抜き上げた。

まるで鰹の一本釣りのようだった。私はやはり水の落ち口の近くにいた、もう一匹のイワナに狙いを付けると、全く同じ要領で水溜まりから岩棚の上に抜き上げた。未だ2匹見える。見えない所にも居るはずだから、暫く楽しめる。私は面白くて、一人で笑い出しそうだった。

ふと、何かの気配を感じて振り向くと、加藤庄平が直ぐ側まで近寄っていた。私が何時までも来ないものだから、心配して見に来たのだ。彼は状況を把握するなり、

「交代、交代。そんな、一人だけで楽しもうなんてずるい。」

そう言うと、笑いながら私の横に座り込んだ。私は一歩下がり、崖に寄りかかって高みの見物をすることにした。

彼は間もなく水溜まりから3匹目のイワナを抜き上げた。ところがその後が続かない。しかし考えてみれば、続かないのが当たり前だ。さして広くもない水溜まりから次々と釣り上げたのだから、3匹も釣れたことの方が出来すぎと言うものだ。

ところが諦めかけた頃、水溜まりの下流側の水面に波紋が広がった。水面が光っているので水中の様子は判らないが、魚であることに違いない。

「庄平さん、あんな所にもいる」
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白い縁取りの綺麗なイワナ。

降下

魚がライズした場所まで結構な距離があった。しかも左側の崖がくびれているため、フライを正確に投げられない。何度か試してみたが、うまくいきそうになかった。すると彼は、川底を覗き込み、ついで岩肌を眺め終わると、

「ちょっと行ってくる」
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誰も釣ったことがないのか。イワナは逃げようとしなかった。

そう言うなり私にロッドを預け、岩伝いに滝を降り始めた。

水の透明度が高いため正確に測れなかったが、心配していた通り、水の落ち口付近は背が立たなかった。彼は数メートル泳いで水中の大きな岩に取り付くと、私が投げたロッドを受け取り、岸際を下流に歩きだした。

流れもろくにない静かな淵の中を、上流側から歩いて魚に近寄ろうと言うのだ。魚が逃げない訳がない。ずっと昔、北海道の山奥に分け入ったとき、私は川を渡っていて、危うくイワナを踏みつけそうになった。その後、逃げもせず足下にいたイワナを釣り上げたことがあった。しかしここは人跡未踏の源流ではない。

岩の上からことの成り行きを見守っていた私の目に、驚くべき光景が映った。水中を歩いている加藤庄平の僅か数メートル前で、また波紋が広がったのである。見物していた私も驚いたが、彼も我が目を疑ったに違いない。

そして更に信じられないことに、その波紋の主は彼の投げたフライをあっさりとくわえたのである。不思議だったのはそればかりでなかった。その淵で釣れたイワナは全て同じサイズ、同じような顔をしていた。

予想もしなかった水溜まりの釣りを楽しんだ後、我々は改めて上流を目指し、前年と同じように楽しいひとときを過ごした。誤算があったとすれば、水溜まりの釣りにかまけていたせいで、川から上がる時間が遅くなったことだ。

林道に出たとき,辺りは既に夕方の気配が満ちていた。おかげで場所を変えて、イブニングライズの釣りをすることが出来なかっただけでなく、車に辿り着く迄の間、アブの大群から逃げ回らなければならなかった。

-- つづく --
2004年10月03日  沢田 賢一郎