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高原川編  --第91話--

急変

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下流は未だ水が多く、イワナのとまる鏡が狭い。

渓筋の向きが変わると共に、燦々と光を降り注いでいた太陽が山の陰に隠れた。それだけで辺りは急に夕方の気配に包まれた。これから暫くの間、ドライフライの天下となるだろう。今までもドライフライの方が良かったくらいだ、これはいよいよ勝負にならん。
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釣れたのは25cmほどのイワナが多かった。

私の目の前に小さな落ち込みがあった。その先に狭いが魅力的なプールが見えた。私は何時ドライフライに戻そうか決めあぐねていたが、その小さな落ち込みを釣り終わったところでフライを変え、その先のプールをドライフライで釣ることに決めた。

何れウェットの方が良くなるに違いない。しかしその時間まで釣り続けることができるだろうか。暗くなってからあの白出しを登ることを考えたら、谷底で何時までもイワナと遊んでいる訳にいかない。

私はその小さな落ち込みに向かって無造作にフライを投げた。そして手前に流れてくるラインに合わせてロッドを少しばかり持ち上げた時、ゴツンと鋭い当たりを感じた。

軽く合わせるのと同時に、針掛かりしたイワナが水面から背びれを出し、狭いプールの中を泳ぎ回った。 30cmには満たないが、住んでいた場所から見れば良いサイズだ。しかもフライに対する反応が頗る良かった。

ひとしきり暴れ回っていたイワナからフライを外したところで、私はたった今思いついたフライの交換を、もう一回だけ延ばすことにした。直ぐ上のプールは見るからに良さそうだ。ここを釣ってからでも遅くないだろう。
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ドライフライで次々にイワナを釣り上げる加藤庄平。

私はもう一度、二つのフライを落下する流れに叩き込み、白泡の下に潜り込ませてからゆっくりとラインを張った。再びゴツンといった鋭い当たりがあり、直後に元気なイワナが水面に姿を現した。

二回同じことが起こった。偶然だろうか、それとも何らかの変化があったのだろうか。どちらが正しいかを考えるより、このまま釣り続ける方が早い。私は何か判らない力に引かれているかのように、その上のポイントに向かった。

神懸かり

私に不思議な力が乗り移ったような気がした。目の前のポイントにフライを投げる。「今だ」と思うタイミングで当たりがやって来る。それを釣り上げ、次のポイントにフライを投げる。着水したフライが上手く流れるのと同時に当たりがやって来る。ポイントを変えると、また一投目に同じことが起こる。
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良いポイントが続く所では、イワナの魚影も濃くなる。

ほっと一息ついたとき、 10匹ばかりのイワナを立て続けに釣り上げていた。その間、交互に釣っていた加藤庄平の方には、全く逆のことが起きていた。ドライフライに対する反応は急に悪くなり、浮上してもフライを捕らえない魚が急増した。

やがて行く手にそれまでで最も大きなプールが現れた。入れ食いが続いているときに、最大のプールが現れたのである。期待は厭が上にも高まった。

初めに彼のドライフライが水面を流れた。 2 度、 3 度と流れたが、不思議なことに、何も起こらなかった。どうしたのだろう。このポイントでイワナが出ない筈が無い。彼はフライを流すコースを変え、更に数回流したが、結局、何も起こらなかった。
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上流に向かうに従い、渓は次第になだらかになってきた。

ウェットフライならどうだろう。私は彼と入れ替わり、それまでと同じようにプールの流れ込みにフライを投げ込んだ。 2回投げたが、何の反応も無かった。私はそのプールの脇に立っていたので、ラインを少し伸ばし、流れ込みに投げたフライをそのまま下流まで流し続けた。

プールの開き近くまで流れたフライは、伸びきったラインに引かれて縦方向にターンし、ついで流れを横切り始めた。ナチュラルでなく、その日初めてドラッグを掛けてフライを流した時、ドスンと言った当たりがやって来た。持ち上げたロッドに伝わってきた手応えは、それまで釣ってきたイワナといささか違っていた。
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絵に描いたような白泡と鏡。正にイワナの渓だ。

そのイワナは淵の底を泳ぎ回った後、流れ込みの泡の下に潜り込もうとして、なかなか水面に姿を現さなかった。しかし私が下流側から引いたため、たまらず浮上した。尺を越える見事なイワナだった。

黒い影

暫く魚に見とれていて、ふと気が付くと、辺りは更に夕方の気配が濃くなっていた。水の中は益々暗くなり、川底の様子も判りづらくなった。暗くなるまであと 30分。そろそろ帰ることを考えないと不味い時間だ。

ここから入渓点まで戻るのに 15分あれば充分だ。白出しを登るのに5分掛かるとして、残りは10分。めぼしいポイントだけに的を絞らなければ。

私は暫く続いていた浅い瀬を飛ばし、その上の落ち込みで 2匹のイワナを引き出した。上流を見上げると、幅の狭い水路のようなポイントが見えた。あれを最後にしよう。

そのポイントに近寄ってみると、岸際に古びた木の根が見えた。淵とも瀬ともつかないおかしなポイントは、大きな倒木に沿って水が流れていたためにできたものだった。その倒木は水中で黄色に見えた。周囲の岩や砂が黒かったから、川底はそこだけ明るかった。
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釣れる魚の半分ほどが、黒くきつい色をしている。
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尺近いイワナと、それをかなり越えたこの渓のトロフィー。
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浮上した尺イワナ。大物ではないが、その風情は迫力に満ちている。

さて、一投目をどの辺りに投げようか。私がそのポイントを改めて観察したとき、黄色い川底の上で黒い影が動いた。

イワナだ。それも 2匹いる。30cm近いイワナが川底の倒木に張り付きながら動いている。二つの黒い影は離れたと思うと交差し、水中で陽炎のように揺れていた。

よし、今日はこれが最後だ。私は慎重に間合いを計ると、フライを黒い影の 2mほど上流に落とした。昼間なら流れてくるフライがよく見えただろうが、夕暮れの光の中でそれは叶わなかった。

流速から推測するに、そろそろフライがイワナの頭上に差し掛かると思しき頃、私の目の前で揺れていた黒い影が二つ同時に浮上したかと思うと、直ぐに上流へ向き直った。

間違いない。いま私のフライを捕らえたはずだ。私は待ちきれずにロッドを持ち上げた。ラインが張り、イワナが足下の水面を割りながら、潜ろうと必死で泳いでいた。暗くなってきたせいだけでなく、本当に色の黒いイワナだった。

針を外し終えてから水中を見ると、同じ場所にもう片方の黒い影が揺らめいていた。私は最初と全く同じようにフライを投げた。それはまるでビデオテープを巻き戻したようだった。黒い影は同じように浮上し、そして一瞬後、私の足下で暴れていた。

-- つづく --
2005年03月13日  沢田 賢一郎