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桂川編  --第101話--
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虫吹雪

一ヶ月後の7月初め、私は大物を期待して川茂に来ていた。春から盛んだったセッジの羽化はますます勢いを増し、夕方には前年と比較にならないほどの数が川面を飛び回った。その日はこの地域の羽化がピークに達したのだろう。未だ早い時間からセッジの集団があちこちに見えた。そして山間に陽が落ちた頃、突然虫吹雪がやって来た。夥しい数のセッジが地吹雪のように河原中を右に左に吹き荒れている。数年に一度遭遇するかどうかの凄まじい羽化だ。視界が悪くなるほど飛び回っていたセッジの大半は、やがて飛行高度を下げ始めた。残りは川沿いの木に蚊柱のように纏い付いている。

私はいつものように一度上流へ向かってから丁度良い時間を見計らって戻り、河原への降り口の直ぐ上流にいた。目の前にこの付近で最も実績の高い淵があった。前年は唯の細長い溝であったが、今年になって形が変わり、すり鉢のようになった。対岸は切り立った崖で、それに添って流心が通っている。僅かに突き出した岩の下流側に小さな巻き返しが出来ていた。この年の春、初めてこの淵を見たとき、私はここが今年一番のポイントになることを予感していた。そう思ったのは、私が忍野で大物を何匹も釣り上げたことのあるS字の上のプールに、形がそっくりだったからだ。更にその淵は下流にある川茂の堰堤と、上流の放水口の間という理想的な場所に位置している。
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大部分のブラウントラウトが、セッジの羽化の盛んな日に釣れた。

枝の下

これだけで充分に魅力的だというのに、このプールが絶好のポイントと信じるに足る条件がもう一つあった。対岸にある小さな巻き返しの直ぐ上に木が生えていたのだ。木と云っても切り立った崖にしがみついている小さな灌木だった。しかし盆栽のように小さな木であっても、その周囲は岩ばかりである。間違いなくそれは格好の目印、勿論人間でなくセッジにとってだが、纏い付くための目印になるはずであった。

セッジ(ヒゲナガトビケラ)は川岸にある目印に集まる。多くの場合、水際に生えている木がその役割を果たす。生えている木が少なければ、そこに数多くのセッジが集中する。木がなければ背の高い草でもよい。大きな岩でもよい。もし何も無いところに釣り人が立てば、彼らにとって釣り人が目印となる。河原を歩くといつの間にかセッジが纏い付くので、地方によってはセッジをお邪魔虫と呼ぶほどだ。そのため川岸が変化に乏しい場所で、水際に木や岩が有ったら要注意だ。そこは魚にとって毎日餌が降ってくる場所となる。
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セッジがどれほど栄養豊かな食べ物か、このスタイルが如実に物語っている。

その日は驚くほどセッジが多かったから、このポイントが狙い目に違いない。少なくとも外れることはないだろう。私はそう予想して淵の前に立った。案の定、対岸の小さな木に50匹以上のセッジが纏い付いていた。互いに上下に飛び交いながら次第に水面に近づいてきた。もう間もなくだ。そう思うのと同時に水面が炸裂した。枝の下の巻き返しにまた新しい魚が入ったようだ。

予想がぴったり当たった。後はこの魚が大物であることを祈るだけだ。私は水際へ近づき、2度目のライズを間近に見ながらラインを引き出した。距離は10mそこそこ。辺りは未だ明るいから時間はたっぷりある。この魚はもう貰ったも同然。つまらない間違いさえしなければファイトを存分に楽しめる。間違いとは投げ急ぎすることと、その盆栽のように張り出した枝を釣ってしまうことだけだ。
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グリッズリーキング。ダンケルドと共に活躍したパターンの一つ。

もう一度ライズしたらフライを投げよう。そう決めた途端に3度目のライズがあった。光線の具合で水中の様子が見えないのが残念だった。もし真上から見ていたら、浮上する姿がはっきり見えただろう。私は左手に持ったリーダーを放し、前回と同じダンケルドを巻き返しの中に慎重に送り込んだ。今か今かと待ち構えていたとき、ロッドにバチバチとショックが伝わった。その感触がまるで魚の当たりのように思えてどきっとしたが、飛び回るセッジがロッドにぶつかったためだった。

撒き餌

巻き返しは幅が1mほどしかなく、その手前が流心のため、送り込んだフライは5、6秒で引き出されてしまう。それでもポイントが狭い故に充分な時間である筈だ。引き出されたフライをピックアップしたとき、たった今そのフライが流れていた辺りでライズがあった。枝に纏い付いたセッジの群れが水面まで降りてきている。

その魚はセッジにすっかり夢中になっていた。ライズの間隔は短く、正にむさぼり食っていた。それに反し私は少しばかり不安になってきた。最初はライズのタイミングとうまく合わなかったから、それに未だ少し明るすぎるからと思っていたが、何か様子がおかしい。フライを何回投げても無視され続けている。その間に本物のセッジにライズした回数はもう5、6回では済まない。水位が下がってきたので、今日はダンケルドのサイズを1サイズ落として6番にした。それがいけなかったのか。それとも本物が余りに多く水面を這っているからなのか。私はもう落ちついていられなかった。
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3、4月に釣れるヤマメは銀毛のような形が多い。

海で釣りをしていると、鰯のナブラにカツオやヒラアジが狂ったように襲いかかる場面に遭遇する。絶好のチャンスの筈だが、鰯が余りに大きなむれになってしまうと、それに群がった魚は鰯以外を見なくなってしまい、フライを無視するようになる。散っている魚を寄せるために船から鰯を撒くときも同じだ。少な過ぎれば集まらないし、多すぎれば鰯しか食わなくなってしまう。今は撒き餌が多すぎるようだ。

セッジの乱舞が終わった方がいいのか、もう少し暗くなった方がいいのか、それともライズが終わった方がいいのか、否、余り待っていると彼奴は腹一杯になって寝てしまうかも知れない。やはりフライを換えようか。いつもならライズした魚が直ぐフライに出なくても、決して慌てることが無かったのに、極上のポイントで水飛沫を上げながら、これほど多くのセッジを食べている魚が相手となると話が違ってくる。どれ程のトロフィーか知らないが、唯の魚でないことは確かだ。

余りに長いこと無視されて、私は逆に冷静さを取り戻した。何かが間違っている。見た目におかしなことはないが、フライが本物のセッジに負けていることは疑いようがない。何が違うだろう。最も可能性の高い間違いと云えば、セッジが自力で泳いでいるのに対し、フライがナチュラルドリフトしていることだろう。私はフライが巻き返しの中に少しでも長い時間いられるよう、それまでロッドを高く差し上げ、ラインが手前の流心に触れないようにしてきた。当然リーダーはたるみ、フライは複雑な流れに揉まれて形も泳ぎもがおかしくなっていただろう。
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微かに朱点を残したアマゴ。前年(1985年)誕生したウェットフライ用ロッドのパワースペイと共に。

私は少し下流側に移った。本来なら上流側に移りたいのだが、そうすると張り出した枝にラインが捕まってしまう。下流側に移れば枝に触れることなくフライを投げることが出来るが、流れ方は更に悪くなってしまう。しかし私はそれを承知で下流側に移り、枝の先端に向け慎重にラインを伸ばした。ラインの先端が張り出した枝を擦るように伸び、フライを魚の居ない対岸の岸際に運んだ。私は同時にロッドを持ち上げ、ラインを張ってフライを巻き返しの中へ引き込んだ。2、3秒ならこの状態を保てるだろう。今あの魚は、岸から水に飛び込んで、その巻き返しに泳いできた生き物を発見した筈だ。

ドスンというショックと共にラインが引き込まれ、川底に向かって一気に伸びていった。至近距離だと云うのに、かなりのフライラインが水中に突き刺さっている。ここは想像していたよりずっと深いか、あるいは崖下がかなり抉れているに違いない。フライを引ったくった魚は暫くの間身体を揺すりながらその場所を動こうとしなかった。似ている。6月に少し上流で釣ったブラウンとよく似た引き方だ。

5分以上過ぎたろうか。私はロッドを左手に持ち替えた。右手はすっかり痺れていた。しかしほんの数分で今度は左手も痺れてきた。私は左右交互にロッドを持ち替えながらその魚が疲れるのを待った。10分近く経って勝負が付いた。ついに息切れしたのか、その魚は急に大人しくなって足下に浮かび上がった。流れの速い瀬を嫌って緩い淵に潜り込み、毎日セッジを食べ続ければこういうスタイルになります、と云わんばかりに太ったブラウンだった。

-- つづく --
2006年12月05日  沢田 賢一郎