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桂川編  --第102話--

水柱

翌1987年、私はそれまでのように5月からでなく3月と4月も、忍野に出掛ける回数の半分を割いて桂川へ向かった。理由の一つは忍野に大型魚の気配が薄かったこと。二つ目は桂川で前年に釣り上げたブラウンの兄弟が、どれ程のモンスターに成長しているか興味津々だったこと。それを釣ることを想像しただけで胸が熱くなったからだ。

幸いなことに昨秋は大きな台風が来なかったため、川相は前年と余り変わっていなかった。私は前の年にブラウンを釣ったポイントを殊更マークした。ところがブラウンと思しきライズが無い。対岸すれすれで跳ねる魚も少なく、漸く見つけたと思ったらニジマスであった。ブラウンは何処かに消えてしまった。沢山いると思っていたのに、実はほんの僅かしか居なかったのか。何れにせよ、それ以降姿を見ることがなかった。
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桂川の大ヤマメ。長さでなくそのボリュームに誰もが驚かされる。

それに対し瀬の中、それも何の変哲もない瀬の真ん中でライズする魚に何度も遭遇した。単調な流れの真ん中で跳ねるものだから、直ぐに見つけられる。しかもフライを流すのが簡単だから、あっさり釣れた。その大部分がヤマメであった。この年、ヤマメは数が多いだけでなかった。3月の末に長さが尺を超え、4月の末に38cmが釣れた。これは前年の7月末に釣れたサイズと同じであった。

ヤマメは日増しに大きくなっている。そしてセッジは前年と同じように大量に発生している。今年は記録的なヤマメが釣れるかも知れない。私は大物への期待をブラウンから急遽ヤマメに向けることにした。
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体型はアマゴのようだが、朱点は見つからなかった。

ところが前年と同じく、5月の連休を境に様相が急変した。フライを全く無視してライズを続ける魚。激しくライズしていたのに、一度フライを投げただけでライズを止めてしまう魚。そして諦めて場所を変えると、大胆にも再びライズを始める魚。そんな釣り人をあざ笑うかのような魚が目立ってきた。考えられる原因の第一は釣り人が増えたためと思えた。

以前は大部分の人がドライフライを使っていたから、魚がスレてフライを無視するということを聞いても、ウェットフライを使っている人には関係なかった。ところが当時桂川へ通う釣り人、それも5月以降に大物を狙う人は皆と言ってよいほどウェットフライを駆使していた。その影響がいよいよ表れてきた。二つめの原因は、雨が少なく早い時期に渇水になったことだ。気候が穏やかで餌が豊富なのはありがたいが、流れが大人しくなる分フライの泳ぎが悪くなり、魚に早く無視されることになった。
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銀色のヤマメ。この魚にはパーマークが全く見あたらない。

梅雨

めぼしい魚が釣れない日が一ヶ月続いた。さすがに諦める人が増え、イブニングライズを釣る人はめっきり少なくなった。6月の初め、梅雨入りと共に待望の雨が降った。少し降りすぎだったが、状況を変えるにこれ以上の恵みはなかった。私は一日置いて川茂に向かった。川は一週間前と見違えるほど豊かに流れていた。そのせいで細かいポイントは潰れてしまったが、降り口の正面に新しく長い瀬が出来ていた。私はいつものように場所を確認するため上流へ向かいたかったが、土手の上から一目見ただけで渡渉出来ないことが解った。
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秋になって使うことが多かったシルバーマーチブラウン。

私は増水した流れを注意深く見渡した。流れがどれ程変わったか、マークする場所は何処か、今日はどれだけの範囲を釣ることができるか調べていた。その時、下流で大きな水柱が立った。場所は正面の長い瀬を下った流れのほぼ中央。私の居た場所から遠いため音は聞こえなかったが、まるで大きな石を投げ込んだようだった。桂川本流でこれほど大きな跳ねを見たことがない。水飛沫の主は、私がこの本流を釣り始めて以来、未だ一度も遭遇することのなかった魚に違いない。私は咄嗟にそう確信した。

運悪くと言おうか、その水柱の起こった真横に一人の釣り人が見えた。遠目にもその驚く様子が解ったが、直ぐにフライロッドを振り始めた。私はそれを見て、忍野で過去に何回か同じような跳ねに遭遇したことを思い出した。そうした魚は自分の存在を誇示するように跳ねた。全て通常のライズが始まるよりずっと早い時間であった。更に共通していたことがある。ライズは一回切り。2度は跳ねない。その場所にフライを投げても反応しない。ライズの始まる時間まで待っても跳ねない。しかしその付近を占領し、他の魚を追い払う。その証拠に、周辺で他の魚が全く釣れない。
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都留より上流で暫く使用したイエローダン。

私はたった今見た水柱の主がただものでないことが解っていた。だからこそどうしてもを釣りたかった。私は数少ないが、忍野で成功した経験を踏まえて立ち向かうことにした。

今日は水が多い。雨が降る前と比べ川幅が五割り増しもある。しかし彼奴の居る場所の流れは単調だ。フライのサイズは大きすぎない方が良いだろう。それを完璧に流さなければならない。フライのスウィングスピードを殺し、できる限りハンギングフライの状態で届けたい。普段より少し上流側から釣ることになるから、ラインを投げる距離も長くなる。リーダーに6番のフライを2本結ぶと、6番のラインでは心許ない。ラインは7番が良いだろう。

私はその2年前の1985年に製作した9フィート6インチのアバディーンを取り出し、前の年に完成したハニカムリールを装着した。WFー7ーFラインの先には9フィート、2Xのリーダーをそのまま結んだ。リードフライはその間に決めていた。川が増水し、飛んでいるセッジが少ないことからピーコッククィーン。そしてドロッパーにアレキサンドラを選んだ。
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春の川茂堰堤。浚渫工事のため川の様子が一変することも珍しくなかった。

支度を終えて私は河原に降りた。彼奴は間もなく食事を始めるだろう。その機が熟すまで待とう。それに先ほど間近で水柱を見た釣り人は、今でも執拗にロッドを振っている。彼奴は絶対に食わないだろうが、あの釣り人が諦めて止めるまで待たなければならない。私は行けるところまで上流へ向かい、丁寧にフライを流し始めた。投げたフライがどのくらいの早さで流れを横切るか。対岸近くに投げた時、ハンギングフライの演出がどの程度可能か。大物が掛かったとき、何処へ誘導するか。そのようなことを調べながらゆっくり釣り下った。

瀬の頭で30cmほどのニジマスを2匹釣ったが、何時も釣れる魚と違って、どことなく白っぽかった。久しぶりの増水で魚が入れ替わっている証拠だ。水柱を見てからほぼ一時間近く過ぎ、辺りが大分暗くなってきた時、下流の河原に動くものを見つけた。先ほどの釣り人が降り口に向かって歩いていた。よし、これで誰も居なくなった。私は更にゆっくりと瀬を釣り下った。

-- つづく --
2007年01月08日  沢田 賢一郎