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スティールヘッド編  --第117話--

完敗

「ケン、魚か?」

私の後で様子を見ていたガイドのビル・ハリソンの声が聞こえた。

「魚だと思う」
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夜明けのロアー・アイランド・プール。

返事をしてみて、私は自分の声がかすれていることに気付いた。

更に10秒近くが過ぎた時、それは何の前触れもなく突然走った。流心を越え、下流へ40mほど走って止まると、再び岩のように動かなくなった。

魚の止まっている場所は右カーブの下流で、川が左に折れる手前だった。もしもう一度同じように下流へ走ったら、この場所から見えない所へ行ってしまう。ラインは水際の木に掛かってしまうし、最早手の打ちようはない。私の喉は渇くのを通り越し、かすれ声さえも出なかった。
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ポンプハウス・プールに朝日が差し込む。

私にできることは、ここで踏ん張ることだけだ。そうかと云って、とても止められるような相手ではなさそうだ。10秒近く経ってから、私は恐る恐るロッドを持ち上げ、ラインを少しばかり強く張った。そのラインの先から魚が身体を揺する震動が伝わってきた。又走るのだろうか。

突然、張りつめていたものが途切れた。私は一瞬何が起こったのか理解に苦しんだが、大きく湾曲して下流を向いていたロッドはまっすぐ空を向き、伸びたラインに重みを感じることもなかった。

「外れた」「どうして外れてしまったのだろう。何も不味いことをしていなかったのに」
魚に逃げられてしまった悔しさと、ラインを全部引き出されて切られるという、最悪の状態にならなくて良かったと云う安心感が、私の気持ちを複雑なものにしていた。
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右コーナーを下った魚が左コーナーの手前で止まった。ここから下られたら万事休す。

針が外れた後に軽くなったラインを巻き取るのは、どんな時でも厭なものだ。ラインが長ければ長いほど落胆も大きい。その長いラインを、私は長時間掛かって巻き取った。しかしフラットビームの後にフライラインを巻き始めたとき、その先に何も付いていないことに気付き愕然とした。フックが外れたのではなかった。結んだティペットが、その結び目から切れていたのだ。
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キャンベル・リバーを愛したヘイグ・ブラウン。その庭から急流を臨む。

私はそれを目の当たりにしても俄に信じられなかった。0Xや1Xのティペットを切られたのではない。結んでいた4号は凡そマイナス2Xだ。如何に投げ釣り用の糸とは言え、何のショックもなく切れるなんて。

そこでスティールヘッドの凄さに感心している場合でなかった。そもそもティペットを結ばなくてはならないのが間違っている。このまま改善できなかったら、私はこれから何度も逃げた魚の感心をしなくてはならなくなる。それだけは何としても防がなければ。

私がティペット部分の長いリーダーをどうしても作らなければと思ったのは、この時が初めてではなかった。しかしこの時ほど強く決心したことはなかった。

私はこのカナダツアーから帰るなり、工場の技術者と何度も話し合い、翌1985年、遂に 9フィートで70cmのティペット部分を持つテーパーリーダーの製造に世界で初めて成功した。そのリーダーを初めて使った時、私はその素晴らしさが予想したより遙かに大きかったことに改めて驚かされた。思えばその成功はこの時の悔しさがバネになっていたからだと、今になっても想い出す。

-- つづく --
2014年12月02日  沢田 賢一郎