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渓流編  --第13話--

何故フッキングしない?

フライフィッシングを始めるまで、私は魚釣りを介して空想の世界と現実の世界とを頻繁に行き来してきた。竿先に伝わる振動も上下動を繰り返す浮子も、魚の動きを想像する楽しみと期待に満ちていた。魚からの信号を正確に感知できれば、合わせのタイミングが判る。正確かどうか、合わせてみれば結果が直ぐに表れる。実際に魚が針の付いた餌を飲み込んだ瞬間を見ている訳ではないから、どんなに上手く行えても、全ての判断が想像の域を出ない。ところが、魚が目の前にいて、しかも水が澄んでいると、魚が餌を食べる光景が丸見えになるときがある。そんな状況に出くわすと、未だ一匹も釣り上げていないうちから、その付近の魚を全て釣り上げたつもりになっていた。やがてルアーに手を出し、それを卒業してフライの世界に入って見ると、魚が餌、つまりフライを食べる瞬間が幾らでも見えるようになった。フライの経験が未だ浅い頃、「毛針の合わせは難しい」と幾ら言われても、私にはピンとこなかった。魚が毛針を食べる瞬間がはっきり見えると言うのに、何故、合わせが難しくなるのか、フライの初心者だった私には納得できなかった。
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1972年の金峰山川本流の大堰堤。

その頃、私は練習のために丹沢にある、当時未だ珍しかった管理釣り場に出かけた。川の規模が小さいから、フライは何時も目と鼻の先に浮いている。それを見失うことは殆どなかった。そして、それに出てくるニジマスやイワナの姿を見逃すことも無かったように思う。彼らは何時も石の影から浮上し、フライを飲み込む。魚とフライが接触した瞬間、フライはもう彼らの口の中に仕舞われているから、私は彼らの鼻先とフライとの距離がゼロになった時にロッドを持ち上げれば良かった。足下に寄せる途中で外れてしまうことはあったが、フライをくわえた魚を全部釣り上げたと言えるほど、上手く合わせられた。

悔しかったのは、フライに近づいただけで、帰ってしまう魚であった。どうすればそういう魚にもフライを食べさせることができるだろうか。私はそればかり考え、合わせ方を問題と思っていなかった。

ところが、そんな自信を根底から覆す出来事がほどなくやってきた。金峰山川に通うようになってからだ。川端下村の数キロ上流に大きな堰堤があった。私は単に大堰堤とだけ呼んでいたが、その堰堤の下に大きなプールが二つあった。私が通い始めた1972年当時、その二つのプールには無数のイワナがいた。出かける度に尺近い魚が何匹も釣れる。何匹釣っても全く減る気配が無かった。そのプールで釣っていると、最初の5匹程までは、全くあっさりと針に掛かる。そのうちフライに対する出方がおかしくなり、それ以降、次第に空合わせが増えるようになった。15メートル近い距離があるとは言え、フライに飛びつくイワナの姿がはっきり見える。飛びついたのを確認してから素早く合わせているのに、魚の皮一枚引っ掻くだけの感触を残してフライが帰ってくる。時には何の抵抗もなく戻って来る。魚が飛びついているのに針掛かりしないのは、魚の食い方が悪いからだ。そこまでは私も直ぐに気がついた。しかし食い方の悪い魚でも針掛かりさせたい。どうすればよいだろう。経験の乏しいことは何と恐ろしいものだろう。私は無謀にもフライの改造に取りかかったのだ。
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渕尻でかかった魚が急流を駆け下る。

百発百中フッキングするフライ

私が目指したのは、一度魚が飛びついたら最後、必ず針掛かりしてしまうフライを作ることだった。ドライフライは水面に浮いている。その浮いているフライを魚は下から浮上して捕らえる。希にヘッド・アンド・テールと言って、水面から飛び出した魚が上からフライに襲いかかることがあるが、そう言うときは魚の食欲が旺盛な時だから、問題にしなくてよいだろう。魚が下からフライを飲み込もうとしたとき、針が口の中にうまく入らないとすれば、それはハックルやテールが邪魔をしているからだろう。そう解っていても、ハックルやテールが無ければフライが浮かないから、取り去ることはできない。それならハックルやテールに邪魔される前に針が魚の口に入るようにすれば良いだろう。

私は細身のロングシャンク・フックを取り出し、シャンクの中央を内側にくの字形に曲げ、そのアイ側だけにフライを巻いた。巻き上げたライトケイヒルはなかなかの出来映えだった。フライの形を変えずに、フックだけが今までよりずっと下に伸びている。魚が下からフライを飲み込もうとすれば、真っ先にフックが口の中に入る筈だ。
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針先が真っ先に魚の口に入るだろうと、考えた末のフック。

私はわくわくする気持ちを抑えきれず、早速そのフライを持って大堰堤に向かった。満を持して投げたフライは、幾分頼りない浮き方だったが、伸びたフックを下に向けて流れ始めた。気持ちが高ぶっているせいか、その日に限って魚が出て来るのが随分と遅く感じられた。それでも数投目に茶色の固まりが浮上し、フライと交差した。私は待ってましたとばかりにロッドを持ち上げた。ところがロッドは何の抵抗もなく上を向いてしまった。そんな馬鹿なと思ったが、魚は掛からなかった。しかし私には、もしかして合わせが早すぎたのではないかと言う危惧があった。一刻も早く合わせたくて、ほんの僅か早まったような気がしていたのである。次の魚に対し私は慎重にタイミングを計った。しかし2匹目の魚はフライを鼻面で押すような仕草を繰り返し、合わせのタイミングが掴めない。そうこうしているうちに、画期的なアイデアのフライは沈んでしまった。やはりフックサイズが大き過ぎたのだろう。残念ながら実験は失敗に終わった。
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フライに対する反応は正直だ。

フックサイズを変えずにフックだけを下に向けて伸ばしたい。私は今度はこの課題をクリアーするために一週間費やし、ついに革命的なスタイルを思いついた。そのスタイルとは、先ず細いワイヤーのフックに、ハックルをいっぱい使って浮力の大きいフライを巻く。その後で、フックをテールの付け根からカットした。つまりフックでなく、細いワイヤーにフライを巻いたことになる。フックのないフライは殊更リアルに見える。これなら魚が何処にいても飛び出して来るだろう。その飛び出してきた魚がフライを飲み込む前に、しっかりと仕掛けを施した針が口に入ればよい。私はフライのアイにリーダーを通し、その先に裸のフックを結んだ。これで完璧だ。フライは全くリアルだし、リーダーがアイを通っているだけだから浮力も大きいだろう。フックは下からフライに襲いかかる魚の開いた口に真っ先に入るに違いない。更に針掛かりした後にフライは魚から離れるから、損耗も無い筈だ。
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これこそ極めつけのフライだと思ったのだが・・・。

実験は第一回目の時より更に待ち遠しかった。私はその革命的スタイルのフライを宝物のように箱にしまって、再度、大堰堤に向かった。堰堤の下にあるプールの内、下流側のプールは一本の流れの筋から何匹ものイワナが顔を出すのが常だった。私はその流れの筋に真っ先にその革命フライを流した。フライは今までと少しばかり違った姿勢で水面を滑ってくる。流れの核心部を通過し始めたときなど、本当に息苦しくなるほどだったが、フライは無事に通過してしまった。次も、またその次も。何回投げても、フライはただ静かに水面を滑って来るだけだった。

私は仕方なくそのプールを諦めて上流側のプールに立ち、念のためフライをもう一度点検した。完璧だ。このフライに出たが最後、魚は針を逃れることができない筈だ。私は早くそれを確かめたくてうずうずしているというのに、肝心の魚がこのプールでも出てこない。何と言うことだろう。数投目、フライの下で何かが動いた気配がした。もう一度と、投げ直したフライが同じ場所に差し掛かったとき、ついに魚が顔を出した。「よしっ」。ところが私が自信を持って持ち上げたロッドはむなしく空を切っただけだった。私はがっかりしたが、魚の出方がひどく悪かったのを見ていたから、それほど失望していなかった。あんな出方なら掛からなくても不思議ではない。私は直ぐさまフライを投げ直した。しかし、魚はそれっきり姿を見せなくなってしまった。
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やはりオーソドックスなフライがよく釣れる。

おかしい。何かあったのだろうか。このプールに限って魚がこれほど顔を出さないことは未だかって無い。先行者でも居たのだろうか。どうして画期的なフライの実験をするときに限って、条件が悪いのだろう。これでは実験の成果を確かめられないではないか。

私は少しばかり不運を嘆いていたが、早く他の場所で実験したかったものだから、一度道路に戻ることにした。林道に上がる道が堰堤の下流側についている。その登り口に向かいながら、最初にフライを投げた下流側のプールの脇を通り過ぎたとき、私は何か後ろ髪を引かれるような気がして立ち止まった。無駄だろうが、いつものフライを一回だけ投げてみよう。何事も念のためだ。

私はフライボックスから使い慣れたローヤルコーチマンを取り出し、急いでリーダーに結ぶと、プールの流れ込みに浮かべた。本当は、これほど丁寧に確認しなくてもいいのに、と思いながらフライを眺めていた。ところがほんの数秒後、直ぐ下流の川底から一つの茶色い影が浮上し、水面でフライとまともに衝突した。反射的に動いた私の手に小気味よい魚の振動が伝わってくる。何と残念なことだろう。こういう出方をしてくれたら、フッキングの良さを直ぐに確認できたのに。私はその時点で未だ本当のことが解らず、単にそう感じていた。イワナをいつものように一匹釣り上げてから、私はもう一度同じようにフライを流れ込みに投げた。今度も僅か数秒後、最初の魚より少しばかり下流からイワナが浮上し、同じようにしっかりとフライをくわえた。
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しっかり顎をとらえたスペントバジャー。やはりこれが一番頼りになる。

2匹目を釣り上げたところで、私は初めて不安になった。いや、待てよ。これはフライのパターンのせいだろう。先ほどの実験はライトケイヒルだったから、反応が無かったのに違いない。しかし気になるから確認しないと。私は使い慣れたまともなライトケイヒルを結ぶと、せかされるように渕頭に浮かべた。フライは何事もなく今しがたイワナが現れた流れを通り過ぎ、淵の中に入っていった。魚に出て欲しいのか、出ないで欲しいのか、自分でもよく判らない。そんなおかしな気持ちで眺めていたフライが3匹目のイワナに飲み込まれたとき、私はこの2週間の間に巻き上げたフライが、かくも馬鹿馬鹿しいもので、それを革命的なフライだと信じた自分の浅はかさに、穴があったら入りたいくらい恥ずかしくなった。幸い、周囲を見渡しても一人の釣り人も居ない。こんな光景を見られなくて本当に良かったと、冷や汗をかく思いだった。

-- つづく --
2001年06月30日  沢田 賢一郎