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スティールヘッド編  --第144話--

ラストチャンス

最終日の釣りを我々は幸運にもジョーンズ・ロックで始める事ができた。川は昨日、あれほど多くの釣人が居たのが嘘のように静まり返っていた。過酷な状況で既に7日間を過ごした我々には、もうあちこちのプールを転戦できる程の体力が残されていなかったから、静かな環境で釣りができるのが有り難かった。

午前中、我々は瀬の頭から終わりまでを丁寧に釣り下ったが、何事も起こらなかった。昼過ぎになって、それまで垂れ下がっていた厚い雲が消え、綺麗な青空が広がり始めた。同時にそれまでくすんでいた水面がキラキラと輝き始めた。

状況が変わる。いや、変わって欲しいと思っていたから、この空模様の変化が停滞した状況を変えるに違いないと信じた。時刻は午後2時を回っていた。我々は目ぼしい範囲を釣り切って、再び瀬頭に戻った。午後の3時を過ぎると、川に夕方の佇まいが訪れる。間もなく11月だ。晩秋の日暮れはことさら速い。

時刻からして、この瀬を流せるのはあと一回だけ。天気が良くなっても、本来の夕刻が間もなくやって来る。それは昼間、深場に居た魚が浅瀬に出てくる時間だ。我々は光の具合によって変化する周囲の景色を眺めながら、しばしの休息をとった。幸い、誰一人として訪れる釣り人は居なかった。やはり昨日は不調だったのだろう。

太陽が低くなり、水面下が暗くなり始めたのを見届けてから、我々は川に入った。川底は酷く滑る。私はマリアンの直ぐ後ろに立ってゆっくりと下った。この1週の間に水位がかなり落ち、ゆったりと膨らんで流れていたジョーンズ・ロックに、川底の変化を知らせる水面の乱れが新しく幾つも誕生していたが、今日はそれが更に際立っていた。3時を過ぎた頃、我々は核心部の中央を通りすぎようとしていた。太陽は更に低くなり、周囲を明るく照らしてはいたが、水中は暗く川底が見づらくなってきた。

最後の一流しをスタートさせてから1時間以上が過ぎ、目の前に川底の変化を知らせる流れが近づいてきた。そこを過ぎると水深が浅くなり、傾斜もきつくなって流れも速くなる。つまり、魚が出てくる可能性が低くなってしまう。釣り人の気持ちとして、そこまでは頑張るが、残された力を振り絞って頑張れるのはそこ迄、ということになる。

何事も起こらないまま、我々はその境界近くまで釣り下ってきた。しかし私には何か納得出来ないものが有った。それは、これまでの実績、天候の好転、最高の時刻、定かではないが、昨日は釣れていない筈。これほどの条件が整っているというのに、何故、何の反応も無いのだろう。

目の前に広がる流れの境目を見ながら、我々は今回の釣行が遂に終わることを感じた。事実、私は川岸に上がるルートを眺め、マリアンはラインを巻き取ろうとした。改めて流れに目をやると、どうにも納得出来ない気持ちが沸き上がってきた。投げてきたラインの長さを考えると、もう一投するべきではないか。私はマリアンに叫んだ。

「頼むから、あと一回だけ投げてくれない」

彼女は2mほど下ると、今までと同じようにフライを下流の流芯に叩き込んだ。フライは今、流れの境目を横切り始めた。ここを流せば、気が済むというものだ。
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最後の一投。奇跡が起きる。

フライが流れに馴染んだ頃、マリアンが急に振り返り、

「魚!!」と叫んだ。

私は一瞬面食らったが、張り詰めたラインを見て、その神懸かった出来事を知った。
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ロッドを高く保ち、ラインの根掛かりを防ぐ。

本当に魚がやって来た。ポイントの終了を告げる波間、その際を流れた最後のフライをスティールヘッドが捕えた。
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下流に下ることなく、魚を引き寄せる。

良かった。読みは間違っていなかった。そう思うのと同時に、そんな神懸かった出来事を絶対に無駄にしてはいけない、と言う思いが込み上げてきた。
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岸際まで寄ってきたスティールヘッド。

私は直ぐに彼女の手をとって岸辺に向かった。10mにも満たない距離がとても長く、足を滑らしながらそこを進む自分達を、これほど不自由に感じたことは無かった。岸にたどり着くとマリアンはラインを張り詰めた。スティールヘッドは短い遁走と抵抗を繰り返しながら次第に岸近くにやって来た。激しいファイトは激しい抵抗を産むが、落ち着いたファイトは魚を落ち着かせるものだ。スティールヘッドは予想に反し、短時間で大人しくなって足元に寄ってきた。20ポンドを少し下回るサイズに見えた。
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底石のなだらかな場所へ魚を誘導。


写真を撮っていると、我々の直ぐ上流側にゴムボートが一隻流れ着いた。見るとキャンベル・リバーのガイド達であった。彼らから思いっきり祝福され、今回の釣りが大成功だったことを改めて思い知った。彼らと、その周辺の釣り人の間で、数日前からこのジョーンズ・ロックをサワダ・フラットと呼んでいたことを聞かされた。
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遂にランディングに成功。感激の瞬間。

この厳しい状況下、我々は8日間で5匹のスティールヘッドのランディングに成功した。その間、周辺でフライで釣れた魚を一匹も確認できなかったことを思うと、これ以上望むべきもない成果だった。この成功は一体何によってもたらされたかを考えた時、幸運を除けば、思い浮かぶ理由の半分が作戦、残りの半分はフライを投げて釣ったのではなく、フライを泳がして釣ったことだと、今でもそう思っている。
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遂にランディングに成功。感激の瞬間。


-- つづく --
2016年02月16日  沢田 賢一郎