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湖沼編 • 本栖湖  --第27話--

追跡

11月の中旬、私は夜明けから本栖湖でロッドを振っていた。あのとき以来、長崎ワンドが静まりかえっていたため、その日は入り口近くの溶岩帯を回っていた。朝方、岸近くで幾つかのライズが有ったが、フライに出ることなく終わった。2時間ほど経って、私は車で奥の方へ移動することにした。長崎のワンドに差し掛かった時、友人がロッドを振っていたので様子を尋ねると、朝方、沖合でかなりの数の魚が見えたと言うことだった。私はそのまま奥に向かい、数カ所を点々と回ったが、気配が全く無い。仕方なく元に戻りながら長崎湾を通りかかると、そこにはもう誰も居なかった。

私は相変わらず柳の下が何時までも気になっていたから、本栖に来る度、人さえ居なければ、ここで一度はロッドを振るのが習わしになっていた。時計の針は11時を指している。空は良く晴れ渡り、11月にしては暖かく穏やかで、湖面にはさざ波が見えるだけだった。私はロッドを繋ぎながら、朝方多くの魚が沖合で跳ねていた、と言う言葉を想い出していた。彼らは今どこにいるのだろう。それが不思議でならない。
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束の間の静寂に包まれる夜明けの浩庵荘。

ヤマベの遁走

いつものように左の端からフライを投げ始め、湾の中頃まで移動した時、15mほど右側の岸に向かって逃げてくるヤマベを発見した。そのヤマベは凡そ10m程の距離を飛び跳ねながら岸に突進した。私は時々みるその光景が面白くて、その付近にフライを投げた。私はその時シンキングラインを使っていたので、何時までもフライを放っておけない。少し経ってラインを引きながらその場へ歩いた。驚いたことに10センチほどのヤマベが、水際に身体半分乗り出して暴れていた。ヤマベの腹が砂に乗り上げるくらいだから、それを追った魚がブラウンの幼魚であっても、そこまで追えない。さぞかし悔しがっていたろうなどと考えるうち、私は一つのことに気づいた。

相手がブラックバスの場合、ヤマベの逃げる方向はまちまちなのに、本栖のヤマベは何時も岸に向かって一直線に逃げる。何故だろう。想像するに、岸以外に逃げおおせる場所が無いのだろう。もし岸に向かわなければ、あの速さで逃げても捕まってしまうとすれば、捕まえる方の遊泳力は凄いものだろう。ブラウンだろうがニジマスだろうが、幼魚にそんな遊泳力は無い。

そこまで思いめぐらした時、私は何が何でもヤマベを追っている魚の正体を確かめずにいられなくなった。私はラインを短くして湾の中程に立ち、周囲の水面に目を凝らした。5分も経たないうち、左手前方の水面からヤマベが飛び出した。小魚とは思えないほどのスピードで、私の20mほど左の岸に向かって真っ直ぐ逃げてくる。私もそれに合わせて砂浜を数メートル走り、フライを投げた。私の投げたラインはそのヤマベの逃げて来たコースと交差している。私も逃げるヤマベに合わせるように、しかし心のどこかでフライの方が捕まり易くなるよう、手加減しながらフライを引いた。ほんの数秒後、ヤマベは岸に飛び上がるようにして追跡者を振りきり、私のフライは無視された。魚の当たりはまたもや無かったが、際どいタイミングでフライを投げるのがゲームのように楽しく、私は準備を整えると次の魚を待った。
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木々を通して、減水した浩庵荘を見下ろす。

青い影

10分ほど経過した。恐らく丁度12時頃だったと思う。水際から少し下がって待ちかまえていた私の正面でヤマベが飛び出した。距離は30メートルくらいか。こちらに向かって一直線に向かってくる。これは移動することのない絶好のチャンスだ。私はラインをピックアップすると、フォルスキャストをしながらその時を待った。ヤマベはあっと言う間に私の足下に突っ込んできた。同時に私はフライをそこに投げた。水際から僅か3mほどの所に浮いているフライを凝視した時、フライの直ぐ向こう側に大きな影を見つけた。それは音もなしにフライに近づき、1mほどの距離を置いて止まった。私は身体が硬直し、声も出なかった。巨大なブラウンが目の前に居る。しかも私のフライを見つめている。1秒1秒が途方もなく長く感じられた。長崎の突端で初めて見たブラウンと同じ青みがかった巨体は、私と目を合わせるとゆっくり向きを変え、音もなしに沖に向かって消えていった。

私は一年半前の黄昏時、この砂浜に呆然と立ちつくした時のように、暫く動けないでいた。しかし直ぐに気を取り直した。あの時は「終わり」だったが、今度は「始まり」である。感傷に浸っている時ではない。私は車に戻ると、急いでラインをフローティングに交換し、飛ぶようにして砂浜に戻った。それから数回に亘って、ヤマベとフライが交差したが、上手くタイミングが合わなかった。それでもブラウンをもう一匹見ることができた。やがて午後3時を過ぎて風が強くなると、逃げるヤマベの姿は全く見えなくなってしまった。
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沖に走ったブラウンを、岸近くまで引き寄せる。

狩り

翌週、空は朝から綺麗に晴れ渡っていた。私は車で湖の周囲を2周しながら、ひたすら湖面を観察した。昼間、気温が上がると水面のユスリカを食べにヤマベが浮上する。それを狙ってブラウンが狩りをすることが判った。彼らはチーターが狙いを付けたインパラを追いつめるように、ヤマベを岸に向かって追う。それは判ったが、では一体何処で待てばよいのだ。本栖湖は広い。当てずっぽうで待っていては、出会い頭と大して変わらなくなってしまう。私は前の週の出来事を参考にして、予想を立てようとした。
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まるで絵はがきの中でランディングしているようだ。

2周しながら観察した結果、競艇場の奥、長崎の沖、浩庵荘沖、大久保沖でまとまったライズを発見した。その中で浩庵層の沖が最も規模が大きかったことから、私はそこを昼間のポイントに決め、時間が来るまであちこち移動していた。

時計の針が11時を指したことを見届けると、私は浩庵層の広い砂浜に向かった。朝はあちこちに釣り人が見えるが、この時間になると誰も釣りをしていない。帰ってしまうか、諦めて食事をしているかが普通だった。私は人気の無くなった砂浜に立ってみた。真っ青に晴れた空の下、富士山が特別綺麗に見えた。湖面は穏やかで、時折さざ波が立つだけ。全く静かな風景が広がっていた。

その日は数人の釣り仲間と一緒だったが、いつものように昼食を摂りに湖を離れることをせず、岸辺にずっと留まる予定でいた。12時近くになっても湖面は静かなままだったため、私は砂浜を登って広い砂浜全体を見渡していた。すると岸から50mほどの所で2回続けてライズが起きた。その辺りの岸は少し傾斜がきつくなり、後ろに茅の原が広がっている。私は直ぐにそこに向かった。砂浜を200m程歩いて着いてみると、遠くから眺めていたより傾斜がきつく、茅や岩が散在していて、バックのスペースが狭かった。ここで神出鬼没のブラウンを待ち伏せするには、浜辺を素早く移動する必要があるだろう。それには持ち易く、小回りの利くロッドが良いだろう。私はそう思うと、たった今つけたばかりの自分の足跡に沿って引き返し、14フィートの12番から、12フィートで10番のロッドに換え、急いで元に戻った。時計を見ると丁度12時を指している。先ほどのライズからもう15分以上経過している。私は15m程のラインを引き出し、水面上に伸ばして待った。
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フライの様子を観察しながら数回ラインを投げ直した時、右側40mほどの所でヤマベが宙を飛ぶのが見えた。ブラウンの狩りが始まった。私は砂浜を急いで移動できるよう、その日は靴も履き替えて来ていたが、タイミングからして絶対に間に合わないことが判ったため、ゆっくり右側に移動した。ヤマベはいつものように岸目がけて飛んできたが、岸から僅か3m程手前で、大きな波紋と共に消えた。ブラウンが捕らえたのだ。私の身体中を一気に緊張が走った。次の魚も直ぐに飛び出した。しかし更に遠かったため、私は移動するのを止めた。動き過ぎるとチャンスを逃す可能性が高いことを随分と経験したからだ。
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黒い影より小さいが、ハンティング中のブラウンのハンティングに成功。

私はそれこそ獲物を探す猛禽のように水面を注視し続けた。そろそろ最初に立った辺りにやって来そうな気がして、元の位置にゆっくり戻り始めた時、正面の沖でヤマベが飛んだ。ところが私がロッドを振ろうとした時、それは消えてしまった。この近くに居るぞ。私はフライを調べると、直ぐにラインを正面に投げ直した。その直後、左側の沖で再びヤマベが飛び出した。今度は真っ直ぐ岸に向かってくる。私は右手で持ったロッドの先を湖面に向けながら、水際を10m程走った。この辺りで間に合う筈だ。

私はロッドを持ち直すと同時に振り始めた。引きずってきたラインが後ろの水面に伸びているため、ラインは綺麗に前方に伸びた。その直ぐ目の前で逃げてきたヤマベが波紋と共に消えた。私は間に合うことを確信し、落ち着いてもう一度ロッドを振った。フライは岸から2mの所で広がる波紋の中に落ちた。数秒の間、時が止まったように感じた。次の瞬間、水面が割れると同時に、魚が大きく全身を現し、上から押さえつけるようにフライに襲いかかった。太陽が燦々と降り注ぐ白昼の出来事だったが、私にはあの黒い影のように見えた。

-- つづく --
2001年10月21日  沢田 賢一郎