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サクラマス編 • 第1ステージ  --第39話--
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緊張

幼稚園前プールを最初に釣り始めた地点まで戻ると、太陽が随分低くなっていた。確かにあれからもう一時間半ほど経過している。このコースを釣るのは2回目だから、すっかり様子が知れていた。私は最初の時よりかなり速いペースで釣り下った。

暫くして少し前に小さな当たりがあった付近にさしかかった。あれは何だったのだろうか。確かに魚だったと思うのだが。想い出すようにラインを手繰り始めた時、竿先にグンッといった手応えが伝わってきた。私がロッドを上げると更にグングンと引く。

「魚だ」私は下流で釣っている森さんに声をかけようとして止めた。ラインをリールで巻く暇もなく、魚が私の方に引き寄せられて来たからだ。

何だろう。微かな期待を持って差し上げたロッドの下に、30センチを越えるウグイがぶら下がっていた。大きなウグイだ。8号線の橋の下で見たマルタかもしれない。
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広い広い機屋裏プール。膨大な雪代が、幼稚園前プールとの境目まで覆い尽くしている。

サクラマスではなかったけれど、この条件でウグイが釣れたのは良い兆候だ。もしサクラマスが居れば、きっとフライを捕らえるに違いない。私はますます希望に膨らんでフライを投げ続けた。それから10投ほどしたろうか。今度はもう少し大きな当たりがあった。ロッドを起こすと重い。そして直ぐに5メートルばかり走った。カナダ以来、久しぶりに私のサーモンリールから逆転音が響いた。

「来た」私が叫ぶと、50メートルばかり下流にいた森さんが気が付き、ネットを持って大急ぎで駆けつけてくれた。

ところがそれからの魚の動きがおかしい。最初は確かにラインを引き出すほど強かったのに、その直後に大した抵抗もなく寄って来る。しかしフラットビームを巻き取った辺りでまた走った。

「何だかおかしい」ネットを広げながら直ぐそばまで寄ってきた森さんに、私は叫んだ。

「魚が軽いし、変な泳ぎ方をする」そう言っている間に、張り続けたラインの先で50センチほどの魚が一瞬水面を割った。私はその影をちらっと見た時、何年も前の丸沼での出来事を咄嗟に想い出した。

「もしや」

そのもしやだった。足下に浮上した魚には茶色の鱗がびっしり着いていた。真鯉ではなかったが、ニゴイだ。その何処か間の抜けた鼻っ面にGPが張り付いている。

二人とも身体中の力が一気に失せてしまった。
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水が多い。しかも濁っていない。この条件をどれほど待ちわびたことか。

溜息

ニゴイに水を差された訳でもなかろうが、その晩雨が降った。この時期、水源地帯の山には雪が降るのが普通だ。雪なら水量は大して増えないが、もし雨だったら積もっていた雪が融けて流れる。雨量はさほど多くなかったが、私は妙に温かい春の雨が気になって、なかなか寝付かれなかった。

翌朝、目を覚ますと恐る恐る川を見た。悪い予感が的中し、濁った水が一面に河原を覆っている。氾濫してる訳ではないが、川はミルクを入れたコーヒーのような色をしていた。

あの程度の雨でこんなに濁ってしまうなら、今まで濁流しか見ていなかったのも、あながち不思議ではない。

さてどうしよう。出るのは溜息ばかりである。こんなことなら、昨日はもっと遅くまで釣りをしておくべきだった。

濁った流れを前にして後悔してもはじまらない。我々はゆっくりと朝食を済ませてから、昨日と同じ幼稚園前のプールに入った。水位は30センチほど上昇していただけだから、釣りができない訳ではない。しかし水の綺麗な昨日でも釣れなかったのだから、この濁りではとても無理だろう。

我々はそれでも諦めきれず2時間ほど竿を振ったが、遂に川から上がって馴染みの道を岐阜に向かった。
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増水したプールは、一流しするだけで一時間以上もかかる。

沈黙

悪天候のため1週間見送った4月の初め、この年2度目の九頭竜川に向かった。天気は短い周期で崩れていたから、もう心配してもはじまらない。なるようになるさと、予報を無視して雨の中を出掛けた。幸い雨は名神高速に入るまでに上がった。東京は丁度桜が見頃だったから、季節としては申し分ない筈であった。

福井の手前で支流の足羽川を渡ったとき、私は濁流でも諦めずに釣りをしようと覚悟を決めた。足羽川の水色はそのくらい酷かった。

この濁りでは様子の知れたポイント以外は無理だ。我々は高速道路を降りると真っ直ぐに送電線の下に向かった。

五松橋を渡った時、下の水を見て思わず悲鳴を上げた。川は濁流、しかも氾濫と言って良いほど増水していた。
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ウグイはどこへ行っても招かれざる魚の代表か。40センチを越えるサイズになると、かかった瞬間ドキッとする。

車をいつもの場所に止め、土手の上から改めて見下ろすと、前回とは全く違った景色が広がっていた。川岸に生えていた草も柳も全てが水の中だ。

取りあえず様子を見に行こう。我々は支度を済ましてすっかり歩きなれた河原を水際に向かった。川岸まで来てみると、状況の酷さがより一層鮮明になった。最早釣りができる状態ではない。私はそれでも、こんな増水時だから魚が避難している場所がどこかにないものかと、川岸を上流に向かって歩いてみた。送電線プールの上流にも長いプールが出来かけていたが、まだとても釣りにならない。五松橋の近くまで行ったが、それらしき場所が見あたらなかったので、私は下流側を見るために引き返した。

ようやく送電線の下まで戻った時、下流に向かっていた森さんが手を振っているのを見つけた。その振り方から何か異常な気配を感じた私は、急いで下流に走った。

送電線の下で中州を迂回した流れが元に戻っている。その後、合流点と呼ばれたプールがその下に広がっている。その流れ込みで森さんと、彼の友人がしゃがんでいる。彼らの側まで近寄った時、私は水際に一匹の魚を見つけた。二人の様子から、私はその魚がサクラマスであることを確信した。
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すっかり濁りの取れた合流点プール。氾濫した時、この辺りにサクラマスが避難していた。

遡河性のサクラマス、それも生きているまともな魚と対面したのは、その時が初めてだった。以前、北海道で釣った小型のサクラマスとも、湖で釣った魚とも違っていた。もっともっと神秘的でありながら、妖艶な風情を辺り一面にまき散らしていた。私は暫く間、その魚に釘付けになってしまった。その魚の眼から自分の目をそらすことができないでいた。

大きなヤマメを追い続けていたからなのか、それとも長いこと憧れていた魚だったからか。とにかく生まれて初めて釣り竿を持った時から、この魚に会うために釣りを続けていたのかも知れない。そう想いたくなるほど私はその眼差しに惹きつけられていた。

その魚の側に居るだけで目眩がしそうだったが、残念ながら、そのサクラマスは私が出会った魚ではなかった。たまたま濁流を避けて柳の根本に居たら、偶然やって来たルアーのフックが背中に掛かってしまったのだ。

しかし理由はともあれ、本物と出会ってしまった以上、もう引き返すことはできない。勿論、そのつもりも無かった。

-- つづく --
2002年02月10日  沢田 賢一郎