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サクラマス編 • 第1ステージ  --第44話--
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60センチを超える巨大なヤマメ。正に女王と呼ぶに相応しい。

春嵐

遂に釣れた。それも一匹ではなく2匹。

一日のうちで、時間と場所が異なっていた。まぐれや偶然ではない。

その知らせが瞬く間に広まった時、誰もがそう思った。しかし、幾ら偶然ではないとしても、この2匹のサクラマスを釣り上げるまで、2年以上の歳月を要したことは事実だ。

3年目になっても未だ不毛の釣り場に通うなんて、気が狂っている。そう身近な人にも言われたくらいだから、魚が釣れても、その魚がどれほど素晴らしくても、そんなにきつくて確率の低い釣りは御免だ。これが大方の反応だった。

確かに釣りの内容を知れば知るほど、にわかに腰を上げられないのは無理からぬことだった。そうした中で数人の釣り仲間が挑戦の名乗りを上げた。その内の一人、豊橋の平岩豊嗣さんと翌週、早々と同行することになった。
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猛烈な風の中、送電線の上流から釣り始めた。

平水

4月12日、未だ先週の興奮さめやらぬ中、私はいつものように送電線の下で夜明けを迎えた。普段は静まりかえっているのに、その日は夜明けから風の音が鳴り響いていた。車の窓を開けると、幾分なま暖かい風がいきなり吹き付けてきた。前線が通過しているようだ。

ロッドを繋ぐ間、頭上の送電線が唸り声を上げている。こんな強風で釣りができるだろうか、少しばかり不安になってきた。

身支度を整えて土手の上に上がった瞬間、吹き飛ばされそうになった帽子を慌てて押さえた。春の嵐だ。少し時間が経てば、大人しくなるだろう。私は空に向かって「風よ止め」と叫んでから、慌ててもう一度言い直した。「川が濁らないでくれるなら、風ぐらい我慢する」
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フッキングしてから暫く経った時、魚は突然浮上し、水面を下流に向かって転がり始めた。

その日、何処を釣るべきか。私はそれをずっと考えていた。

先週のポイントは既に実績がある。あれから一週間経っているから、新しい魚がきっと入っているだろう。それを狙うのが定石というものだ。

しかしそれでは少しばかり面白くない。そもそも自分の信念に基づいて釣り方を変え、ポイントを正確に絞り込んだために釣れたのではないか。それなのにもう実績ばかり追うのは如何なものだろう。もっともっと未知のポイントを開拓し、あの怪しい流れを探すことが自分らしいし、チェリーサーモンの釣りに相応しい。結局、そんな気持ちに落ち着いた。

土手の上から一目見ただけで、先週より水位が下がっているのが判った。川はきっと良い状態になっているに違いない。よし、今日も新しい場所で釣るぞ。私は迷いを吹き飛ばすと、既に決めていた通り正面の土手を駆け下り、広い河原を歩き始めた。平岩さんは暫く釣りをしないで見学することを希望したため、我々は15フィートのランドロックを一本だけ担いで水辺に向かった。
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漸く岸際まで引き寄せる。口の角を捉えたフライが見える。

送電線上

送電線は下流側に向かって延びているから、河原を一直線に歩くと電線が川を跨いでいる地点より大分上流に到達する。送電線プールの上流は細くて浅い瀬だったが、昨年の大水から広がり始め、今年は立派なプールに成長した。先週は水が多すぎて水路のようだったが、その日は美しく流れていた。

プールの全貌が見える所まで来た時、私は流れ込みから開き迄を食い入るように眺め渡した。あの美しく怪しげな流れが我々の直ぐ下流側に広がっていた。私は側の平岩さんにその辺りを指さし、そこを釣るためにもう少し上流から始める旨を告げ水際に向かった。

平岩さんとは以前、カナダで一緒にスティールヘッドを釣ったこともある。そんなキャリアの持ち主だったから、私はごく手短に説明した。

「魚が居るのはもう少し下流だけれど、流れの様子を掴むためと、自分自身のリズムを整えるために、この場所から始めます」と言いながら、少しばかり水に入ってラインを引き出し、対岸に向かって直ぐに投げ始めた。
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慎重にネットですくう。緊張の瞬間。

「あのくらいの角度で投げるのが普通なんですか」直ぐに彼の声が聞こえてきた。

「流心が中央より対岸側を流れているので、フライを対岸の正面に近い所へ投げます。流心が中央を流れていたら、もっと下流に向けて投げます。さもないと、強いドラッグが掛かってしまいますから」

手繰り終わったフラットビームが強風に煽られて、足下の草に絡むのを何とか防ぎながら、私はそのまま一定のリズムで釣り続けた。

釣り始めてから30メートル近く下ったろうか。ラインの先がいよいよ怪しげな流れに差し掛かった。私は一投毎に、息苦しくなるような緊張感に縛られていた。流れを横切るラインのテンションが一投毎に良くなっている。しかし間もなく核心部が終わってしまいそうに見えた。
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ネットの中の魚にしばし見とれる。

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魚を抱き上げると感激の波が全身に広がる。帽子が強風に飛ばされた。

予告

「平岩さん。一番良い所がもうすぐ終わる。あと一、二投で来なかったらここには居ない」

びゅうびゅうと吹き付ける風の中で、私は岸に向かってそう叫びながらロッドを振った。ラインが水面低く伸び、フライが下流の対岸すれすれに消えた。

「フライがもの凄く綺麗に流れている。来るなら今!」

私は自分の声がうわずっていたように記憶している。ラインから伝わる重みはそのくらい官能的だった。

そして本当にラインが引ったくられた。
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カメラのファインダーを覗くと、再び胸が高鳴る。こんな魚が釣れるなら、風など幾ら吹いても構わない。
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「来た!」あとは声が出なかった。急な流れの中で突き刺さったラインが大きく揺れている。魚は暫く川底に張り付いていたが、急に浮上したと思ったら、水面をごろんごろんと転がりながら落ちていった。強風の中、私にだけ聞こえるようにリールの逆転音が鳴り響いた。

私は魚が再び水中深く潜ったのを確かめてから、素早く岸に上がり、魚を引き寄せにかかった。下流に速い瀬が続いているから無理はできない。それが却って幸いしたようだ。慎重に魚を引き寄せた時、サクラマスは口の左のコーナーにピンクブルーのアクアマリンを、まるでカルメンの赤い薔薇のようにくわえていた。

フッキングは万全だ。私は自信を持ってその魚をネットですくった。ところがフックを外そうとフライに手を触れた途端、それはあっけなく外れた。信じられないことに、口の角の蝶つがいが割れていた。針が蝶つがいに刺さると、硬くて外すのに苦労するのが普通なのに、さすが絶世の美女だけあって、サクラマスの唇は何と柔らかかったか。

-- つづく --
2002年03月17日  沢田 賢一郎