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サクラマス編 • 第2ステージ  --第61話--

解禁

1月31日、私は中央道を西に向かって走っていた。暖冬のせいで、道の両脇に幾らも雪がない。さすがに北陸道に入ると道路脇に雪が積もっていたが、この季節にしてはとても少なく思えた。心配しながら走ってきたので、福井に着いた時にはほっとした。これまでの経験から、この時期に無事に来られただけで幸運だった。
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春の到来を知らせるように北陸に青空が広がる。しかしその下の山々は未だ冬景色のままだ。

夕方、半年ぶりに九頭竜川の土手に立った。遠くの山々は一面の雪に覆われていたが、河原には白い固まりがまばらに残っているだけで、見渡す限り茶色の景色に覆われていた。草も木も、河原に緑のものは何もない。その中を青白い光を放った川が流れていた。

九頭竜川に雪代が流れ込んでいる。しかし水量は想像していたよりずっと少なかった。

私は日が暮れないうちに主だったプールを覗いて回った。秋に大水が出なかったせいか、川は去年と同じような佇まいを見せている。プールを巡る毎に、去年の出来事がまるで昨日のことように瞼に浮かんでくる。今日が1月でなかったら、このままロッドを担いで土手を駆け下りたい衝動に駆られた。

サクラマスはもう海から上がってきているだろうか。もし上がっていたら、今しがた見て回ったプールに居るだろうか。その晩、私はプールの光景を一つずつ思い出しながら、今年、最初に釣る場所を何処にすべきか何時までも考えていた。

2月1日

翌2月1日、私は朝遅く目を覚まし、前日落ち合った岡崎市の平岩豊嗣氏と共にゆっくりと朝食をとっていた。私は朝方の冷え込みが収まり温度が最も高くなる時間に釣りたかったから、ことさらのんびりしていたのだが、彼は待ちきれず食事を終えると同時に出掛けて行った。

午前10時を過ぎた。昨日は晴れていたのに今日は曇っている。これ以上待つ必要はないだろう。私は空を見ながら五松橋に向かった。気のせいか朝より空が暗くなってきたように思えた。
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空が暗くなってきたと思ったら突然の吹雪に見舞われた。合流点の上を寒風に乗って雪とあられが飛び交う。

橋の上から改めて九頭竜川を眺めた。解禁日に釣りに行くと言っただけで殆どの人が呆れていたくらいだから、予想通り釣り人の姿は何処にも見えなかった。私はそれを確かめると上流へ向かった。橋の上流には幼稚園前プールが広がっている。昨日見たプールは何処もそれなりに魅力的だったが、解禁日に最初にフライを投げるのはこのプールを置いて他に無い。結局、何ヶ月も前に決めていた通りになった。

私は身支度を済ますと土手を歩き始めた。色が違っていても見慣れた景色が広がっている。一枚の葉も付いていないが、降り口に生えている櫨の木の枝振りも見覚えがある。何もかも去年のままだ。違うのは今、肩に担いでいる17フィートだけだ。

沈黙

枯れ草の上を歩いて私は水際に立った。時刻は11時になろうとしていた。水温は5度。空は更に暗くなってきた。この天気ではこれ以上水温が上がることを期待できないだろう。

私は-4Xのリーダーの先に、ウォディントン・シャンクに巻いたピンクブルーのアクアマリンを初めて結んだ。緊張しているせいか指先の動きがもどかしく感じられる。私は一度だけ深呼吸すると17フィートを一閃した。タイプ II のラインが勢いよく対岸に向かって飛んでいった。違う。ラインの飛び方が去年と違う。まるで川幅が狭くなったようだ。
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最盛期ほどではないが平地の雪が解けて川に流れ込む。暖かい年は冬の間も雪代が流れ込む。

私は半年間、待ちに待ったこの時を楽しみながら釣り下って行った。増水ではなかったが、雪代のせいで水の透明度が低い。腰まで浸からないうちに靴が霞んで見えた。

最初の興奮が収まってみると水は冷たく、川面を渡る風も湿っていた。時折、その風にのって白いものが舞っている。何事も起こらない。まるで湿気と冷気だけが辺り一面に沈殿しているように感じられた。
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濁り気味の川をアクアマリンが泳ぐ。

何処を見渡しても私の周囲に人の姿はない。けれども、氷水のような流れに浸かってロッドを振っている今の私を誰かが見たら、頭のおかしい釣り人だと思うに違いない。サクラマスを釣りたい一心で来てしまったが、本当は一ヶ月ほど早過ぎたかも知れない。次第にそんな気がしてきた。

指先の感覚が薄れてきた頃、去年、4匹目のサクラマスを釣り上げた場所が近付いてきた。流れの強さは申し分ない。サクラマスは居るだろうか。

私は35m先の流心にラインが十分馴染んだのを見届けると、フラットビームを左手で手繰り始めた。数回手繰ったとき、流れてきた草に掛かったような重みを感じた。私は半信半疑でロッドを持ち上げた。そのロッドに忘れることのできないあの感触が伝わってきた。

「来た!」

「サクラだ!」

ラインの先で暴れているのは間違いなく魚だ。そればかりか、頭の振り具合からしてサクラマスに違いない。
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広いプールの中から足下までやって来たサクラマス。アクアマリンと出会っただけでも奇跡だ。

それでも私は自分自身に「喜ぶのは未だ早い」と言い聞かせていた。サクラマスをこんな季節に釣ったことは未だないのだ。しかしウグイやニゴイなら釣っている。姿を見るまで安心できない。

私がリールを巻くだけで、その魚は大した抵抗もせずに寄ってきた。私は少しばかり心配になってきた。巨大なウグイ? まさかそんな。 

5メートル程の距離まで近づいて来たところで、私はロッドを高く差し上げた。一刻も早く魚の正体を確かめたかった。

魚はそのまま水面に浮上してきた。透明度が低いためはっきり見えない。もう少し浮けば判る。そう思った瞬間、魚は反転すると素晴らしい速度で下流に下った。リールの逆転音が沈黙の世界に響き渡った。
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ランドロックに代わって1712Dと初めての記念撮影。

氷雨

突然反転した。逃げられるかも知れない。その心配より、私には掛かった魚がサクラマスであった喜びの方が数倍大きかった。下流に走った魚は岸近くで頭を振っている。

これまでなら冷や冷やするところだが、私はすっかり落ち着いていた。サクラマスがくわえているアクアマリンは今までと違う。ウォディントン・シャンクに4番のトレブル・フックがセットしてあるのだ。外れる訳がない。

この時は本気でそう思っていた。まさかトレブル・フックでも外れることが珍しくないとは知らなかったから、私は安心して魚を引き寄せた。

足下まで引き寄せると、魚は再び同じように下流に走った。水を被った枯れ草に向かった時は緊張したが、魚はやがて大人しくなり、私の目の前にやって来た。
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形の上ではシーズン初めの魚。しかし、暫く前に川に遡上していたのは明らかだ。

私は水面を割って現れた魚に見入った。紛れもなくあの美しいサクラマスの顔がそこにあった。私はすくい終わった後も、暫くの間ネットの中の魚に見入っていた。そのサクラマスはシーズン盛期の魚と比べ、少し黒ずんでいた。遡上したばかりの魚でないのは明らかだった。次いで私はうっすらと開いた口の中を見た。3本のうち2本のフックが上顎にしっかりと刺さっていた。ウォディントンは予想通り大成功だった。

針掛かりを確かめてから、私は岸に向かった。先ほどからちらついていた雪が氷雨となってその勢いを増していた。早く写真を撮らないとカメラが濡れてしまう。私は急いで撮影場所を探し、夢中で写真を撮り続けた。
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この角度から見ると、正に巨大なヤマメ。

フィルムを2本撮り終える頃、氷混じりの雨が本格的に降り始めた。これ以上は無理だ。私はカメラを仕舞うと、遠くに霞んで見える流れ込みに向かって歩き始めた。山は雪でも平地は雨だ。この近くの雪が解けて川に流れ込むだろう。急がなければ。

流れ込みに着いた私は、真っ白い息を吐きながら休む間もなくもう一度ラインを引き出し、フライを対岸に向けて投げ始めた。辺りは冷え切っていると言うのに、私だけは頭から湯気を出している。

再び釣り始めてから間もなく、体の脇を枯れ葉が流れていった。その数が急に増えたと思ったとき、周囲の水色が変わっていた。慌てて振り向いた私の目に映ったのは、もはや濁流と化した流れだった。

今し方サクラマスを釣り上げた場所は未だ暫く下流だ。もう間に合わない。私はラインを巻き取るとゆっくり岸に向かった。堤に上がってその場所の正面まで歩いて来たとき、川の景色はすっかり変わっていた。明日まで待たなければ釣りはできないだろう。

「魚が釣れたら写真を撮るのは後にして、すぐにフライを投げろ」

サーモン・フィッシングの世界で有名なあの言葉を、私はこのとき未だ知る由もなかった。

-- つづく --
2002年10月20日  沢田 賢一郎