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高原川編  --第73話--

後ろ髪

口笛でも吹きたくなる気分だった。狙いは見事にあたり、釣り始めてから未だ数回しか投げていないのに、もう2匹目の尺ヤマメがリーダーの先にいる。これからいったいどうなるだろう。私は魚の抵抗を慎重にいなしながら、右岸側を見やった。だいぶ暗くなってきたが、流れの筋がよく見えた。そして飛沫が上がったような気がした。

よし、今度はあの魚を狙おう。私には水面の微かな変化も、今日に限って気のせいでは無いと信じていた。半分手に入れた魚を早く取り込みたい気持ちと、逃がさないよう慎重にファイトしようと言う気持ちが、再びぶつかり合って、時間の流れがとても遅く感じられた。暴れ回る魚を漸くネットで掬い上げると、これも先ほどと同じくくらいのヤマメだった。太い。手のひらでつかんだ感触が何とも言えず心地よかった。
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夕方、大物を捜して佳留萱を釣り上がる。

私は堰堤の際を歩いて右岸側に移った。右岸側も左岸側と同様、山側に膨らんでいたが、土砂が流れ込まないせいか深いまま渦を巻いていた。その渦の中を流木の欠片が幾つか漂っていて、それに掛からないよう気を付けてフライを投げるのが常だった。

私は目を凝らしてその流木の間に数回フライを投げ込んだ。期待に反して当たりはなかった。その間、ライズと思える飛沫も上がらなかった。先ほど飛沫が上がったと思ったのは気のせいだったのか。私は僅か5、6回フライを流しただけだったが、あれは勘違いだったと思う気持ちが強くなり、リーダーを掴むと急いで左岸側に戻った。

夕方は刻一刻と景色が変わる。ほんの数分離れていただけで、岸際の静かな広がりは只の水溜まりに見えた。流れ落ちる水のカーテンはよく見えても、水中の様子はもう全く判らなくなっていた。私は先ほどと同じ場所に立ち、同じようにフライを投げた。先ほど釣り上げた2匹目のヤマメも、0Xのティペットに結んだドロッパーの方を捕らえていた。ここは浅いから沈まない方が良いのは当然だろう。私はフライが沈み過ぎないよう、投げると同時にロッドを差し上げ、ラインを軽く張った。
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この時期ヤマメのファイトは激しく、大物を取り逃した話が多くなる。

僅かずつ場所を変えながら流し続けた数回目、ドスンと言った重い当たりを感じた。合わせるのと同時に、目の前の水面が浮き上がってきたもので一瞬、明るくなった。「大きい。今までの魚より遙かに大きい」それだけで、私は全身がこわばるのを感じた。

これは尺ヤマメではない。神坂堰堤の主かも知れない。そう思うと息が止まりそうだったが、身体中の細胞が魚に対し、勝手に反応していた。その魚は一度も川底に向かって潜ろうとせず、ひたすら水面近くを泳ぎ回った。身体の向きを変える度、暗い水面に白い腹が霞んで見えた。

魚の大きさとファイトの強さは決して比例しない。小さくても滅法強い魚も居れば、大きくても重いだけで大人しい魚も珍しくない。この魚は後者に属するのだろう。私はそう考え、フックが外れないようひたすら丁寧に魚を引き寄せ、慎重にネットで掬った。
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7月には30cm以上が当たり前となるが、数は減少の一歩を辿る。

「よし、やった」私は思わず声を出した。そして掬った魚をネットに入れたまま、直ぐに明るく足場の良い所に移動した。いったいどれほどの魚か知りたくて、私はロッドを傍らに置くとネットの中を覗き込んだ。大きいことは判ったが、暗いし、網が纏い付いているためよく見えない。私は魚を横向きにさせるため、網の中に右手を差し入れた。魚に触れた途端、何だか変な肌触りがした。

「まさか、冗談、、、、」

悪い冗談だった。私にとって正に悪夢としか言いようが無かった。ネットの中に入っていたのは、40cmを超えて鯉のように太ったウグイだった。下流域なら判るが、イワナも住む上流域でこんなに大きく、しかも丸々と太ったウグイが居るなんて信じられなかった。確かに今日は年に一度のセッジ祭りだ。見たこともない大ウグイが、浮かれて出て来ても不思議でない。この素晴らしいイブニングに、グレートセッジを食うのはヤマメに決まっている、なんて私が勝手に思い込んでいただけだ。「それにしても、あぁ何としたことだ」
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水温の上昇と共に、大物は水通しの良い場所を好むようになる。

確かに引き方が変だった。40cmのヤマメがあれほど簡単に寄って来るはずがない。私はゆっくり立ち上がると、暗さを増した川岸をゆっくり下流に向かった。途中、足場の悪い所を通過する時、顔の高さの岩肌に左手を着いた。同時に生臭さが微かに鼻を突いた。すっかり飲み込まれてしまった6番のグレートセッジを外すのに、魚体をしっかり掴んでしまったせいだ。手をよく洗ったのに、未だ臭いが取れない。その臭いのおかげで、再び全身の力が抜ける思いがした。

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釣れた場所によって、魚の色や形が微妙に変化する。

爆発

岩盤の淵に辿り着いた時、見上げる空は未だ明るさが残っていたが、川岸はすっかり暗くなっていた。足下の岩に沢山のセッジが止まっているだろうし、岸の近くを泳いでいるのも多い筈だが、未だライズがあるだろうか。暗い谷間に目を慣らしながら、私は水面の気配を窺っていた。

暫くしてピチッと言った音が聞こえた。私は音のした方角を見据えた。濃い鉛色の水面が揺らいでいる対岸に向け、私は姿勢を低くして身動きもせず待った。「ピチッ」再び音が聞こえ、暗くなった目の前の水面に細く光った水の輪が生まれた。ライズだ。流心が通る対岸すれすれのところで起こっている。

距離は7、8mほどしかない。私はグリップに止めておいたリードフライを手に持つと、フックキーパーからドロッパーを外した。フライにウグイの臭いが染みこんでいると思うと不吉な予感がしたが、この時間、この場所でウグイがライズするとは思えない。ライズの主が何か判らないが、怪しいことに違いない。静まりかえった川原に響くリールの金属音が、ウグイの不安を打ち消してくれた。

私は水面をラインで叩かないよう、慎重にフライを投げた。フライが静かに流れを横切ったが、何も起こらない。投げ過ぎると対岸を釣ってしまう恐れがあるため、私はラインを短めにしていた。もしかしたら、短すぎたかも知れない。私は30cmばかりリールからラインを引き出すと、もう一度静かにフライを投げた。フライが通過し終わったと思った時、また「ピチッ」と音がし、小さな波紋が広がった。
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大きなヤマメは、そのサイズ以上に我々を虜にする。

食わない。ラインが未だ短すぎるのだろうか。私は直ぐにもう一度30cmほどのラインをリールから引き出すと、ライズの起こった場所の上流に向けて投げた。ラインが伸びるのと同時に、対岸の岩に小さな光が点いた。しまった、フックを岩にぶつけてしまった。ラインが流れきるのを待って、私は今伸ばしたばかりのラインをリールに仕舞い、暫く時間を置いてからフライを投げ直した。

ラインを真っ直ぐ伸ばすと、リードフライは対岸すれすれに落ちている筈だ。その後でラインさえ緩めなければ、リードフライがライズの起こった場所を綺麗に流れる。その代わりドロッパーは魚の感覚外だろう。それから数回、私は丁寧にフライを投げ続けた。フライを投げる場所や、投げた後のロッドの向きを僅かに変えてみたが、何も起こらない。
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高原川の下流域に住む大型魚は、一般に銀色に変わるのが遅くなるようだ。

おかしい。ウグイだったらとっくの昔に飛びついている筈だ。これはますます怪しい。投げた回数が10回を超えた頃だと思う。コツンと言う小さな当たりらしきものがあった。伝わってきた振動が余りに小さかったので、私は半信半疑のまま身動き一つせずにいた。数秒後、フライが根掛かりした時のようにラインが張った。

それは私がロッドを起こすのと同時だった。銀色の固まりが激しく水面を割って飛び出し、更に立て続けに2回空に舞うと、それっきり消えた。余りに突然の出来事に、私はその場に呆然と立ちつくしていた。

ウグイと違って本物は凄い。高原川の魚が一年中で体力のピークを迎える時期に、30cmを軽く超えたヤマメを掛けたらこうなる。私は先ほどの勘違いがますます恥ずかしくなり、周りに誰もいなくて助かったと思った。

セッジの嵐が吹き荒れた晩に、30cmを超えるヤマメを2匹釣り上げた。結果は華々しかったが、私の頭の中は宙を舞って消えたあの銀色の固まりのことでいっぱいだった。

-- つづく --
2003年11月30日  沢田 賢一郎