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高原川編  --第81話--

白い谷

本来なら山を深々と切り込んで流れる暗い谷なのだろうが、谷底に差し込んだ光が白い砂に反射して、岩肌を明るく照らしていた。私は魚を驚かさないよう、川から見えない所を選んで下流に下った。どうしても水際を歩く必要があるときは、前もって遠くからラインを伸ばし、リーダーの先に結んであった14番のスペント・バジャーを水面に滑らした。こうすれば、釣りをしないうちに魚を追い払う失敗をしないですむ。

2回ばかり川を渡っただけで、私は少し前まで谷筋を眺めていた橋の下に到達した。上から見たとき、イワナが遡上してきたコースを歩いて下れるかも知れないと思った。しかし実際に水際に立ってみると大違いで、砂で埋まっていても、橋の下を超えて下流へ向かえるほど浅くなかった。
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尺イワナ、どことなく白っぽい色をしている。

私はそこから今まで歩いてきたコースを釣り上がることにした。直ぐ目の前に良さそうなポイントがあった。流れが岩盤にぶつかり、その付近に大きな石が沢山あるため、砂が余り堆積していないように見えた。スペント・バジャーが微かに見える底石の上を波に揺られて降りてきたとき、いきなりベージュ色の固まりが浮上してフライをくわえ去った。

イワナだった。橋の上から見た魚よりずっと小柄だったが、25cmほどの白っぽい身体をばたつかせて私の足下に寄ってきた。魚が居るではないか。

その上の瀬でも魚が浮上してきた。同じようなサイズだったが、今度はヤマメだった。2匹とも心なしか少し痩せているように見えた。ダムの放水のせいか、それともこの付近の魚はこのくらいが普通なのか判らない。もう少し川が回復してから釣れば、はっきりするだろう。
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砂で埋まっていなかったら、こんな所を歩くことはなかったろう。

最初に降りた地点に戻るまで、更に二匹の魚が私のフライに浮上した。私はその内の一匹を釣り上げた。その前の魚と間違うほどそっくりな姿をしたヤマメだった。

当然だが、上流を見渡しても加藤庄平の姿は見えなかった。私は急ぎ足で、しかし念のため、ここはというポイントにだけフライを投げながら、彼の後を追った。

小さなカーブを曲がった所に彼は居た。彼も同じようなサイズのヤマメを手にしていたが、降り口で別れてから直ぐに釣ったもので、それ以降全く影も見えないという。確かに川を遡るにつれ、川は砂に埋まってすっかり平坦になっていた。魚が身を隠す場所も無い。ダムまでの距離は幾らも無いから、この先も恐らく砂で埋め尽くされているだろう。

上流を見上げると、左手に古い橋が架かっていた。都合の良いことに、人が降りた形跡も残っていた。我々は少し時間を置いてから、もう一度この周辺の探索をすることにし、ひとまず谷を後にした。
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ポイントが回復する順に、魚が住み着くようになる。

尾ビレ

それから半月ほど経過した。加藤庄平が都合で来られなかったため、私は一人で再び白い谷に降りた。谷底に降りた時、私は一瞬、降りた場所を間違えたかと思った。谷はそれほど回復していた。程良い雨が何回も降ったせいで、堆積していた砂が半分に減ったようだ。

「これは良いぞ」

前回降りたとき、川は絶望的な状況なのに魚が居た。今日はきっと何かが起こりそうだ。私はロッドにラインを通しながら、ワクワクする気持ちを抑えられないでいた。

私は無意識に、前回と同じスペント・バジャーを結ぼうとして手を止めた。川の状況はかなり回復している。空は曇って蒸し暑く、谷は夕方のようにしっとりと静まりかえっている。大型魚が動くのに誂えたような条件だ。今日はウェットフライを使おう。
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岸際は、花崗岩を多く含んだ砂によって埋め尽くされていた。

私はドライフライを仕舞うと、カーストワレットから用意しておいたリーダーを取り出した。7フィート半、3Xのリーダーの先に10番のアレキサンドラ、ドロッパーにも同じく10番のブルー・キングフィッシャーが結んである。昼間に釣り歩くには、丁度良いサイズだ。

支度を終えると、私は最初に訪れた時と同じように、先ず下流の橋に向かって川原を下った。川原は未だ白い砂に覆われていたが、川底は何処もずっと黒くなっていて、砂が減ったことが一目で判った。

水量に変化は無いように思えたが、前に降りた時、最初にイワナを釣った淵は倍の広さに見えた。砂が減ったせいで、対岸の岩に沿って大きな石が重なり合って沈んでいるのも判った。如何にも大物が潜んでいそうな気配が漂っている。

私はその淵を真横に見る位置に立つと、一度深く息を吸ってからその流れ込みに向けてラインを伸ばした。2本のフライは波に乗って淵の中に流れ込んだ。ほぼ同時に茶色い影が浮上し、水面近くにあったフライをまるでドライフライを捕らえるように飲み込んだ。
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竹にすがりながら、沢伝いに谷底に降り立つ。

釣り始めてから未だ10秒も経っていないのに、私のロッドがもう大きくしなっている。簡単に寄ってこないと思ったら、綺麗な尺イワナだった。私は魚の顎からアレキサンドラを外すと、ぬめりで糊のようになったウィングを水で濯いでから、再び流れ込みに投げた。

フライを表層に流しながら、私は少しずつ狙いを淵の中央に向けていった。暫く投げ続けるうち、2本のフライは淵の上半分を探り切ったが、それっきり何も起こらなかった。私はこれ以上下流に移動できないので、今度はフライをダウン・アンド・アクロスに投げ、残りの半分の水面を横切らせることにした。

ドラッグの掛かったフライが表層をスウィングし始めた途端、浮上した茶色の影がフライを追った。淵の中央を過ぎた辺りでその影が消えたと思ったら、少し間を置いてグンッと言った当たりが伝わってきた。先程の魚より少し小さかったが、立派なイワナだった。

最初の魚はアップストリームのナチュラル・ドリフト、次の魚はダウン・アンド・アクロスでフライをスウィングさせて釣った。フライはどちらの時も水面直下を流れていた。二匹目の魚が浮上した場所は、その前に同じフライをナチュラルに近い状態で一度流していた。その時は反応が無かった。あの魚は自分の縄張りに数回に亘って入ってきたから、そのフライを捕らえたのか。それともダウン・アンド・アクロスで流したから出てきたのか。

もし後者の理由に依るものなら、ドラッグの掛かったフライなら浮上する魚が、他に居る可能性がある。私は少しでも疑問を持つと、それを直ぐにでも確かめなければ気が済まないたちにできている。気が付いた時、私は流れ込みの脇に立っていた。
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川が荒れても、イワナは不死身か。

私はフライを淵に滑り込む水に叩き込み、そのまま泡の下に送り込んだ。その淵は流れ込みの傾斜が緩いため、落ち込みにフライを沈める時のように上手くできなかった。それでもリーダーが水面で暫く止まっていたから、フライはかなり沈んで流れて居るはずだ。

私は頃合いを見計らってロッドを上流に向け、ラインを張った。リーダーが伸び、ついでフライが浮上して来た。

「だめか」と思いかけたとき、水中で何かが揺らめいたような気がした。

「もしや、魚では」

私はもう一度慎重にフライを流れ込みに投げ、全く同じように縦のターンをさせた。

浮上してくるフライを注視していたとき、川底でまた何かが動いた。幾ら水中が霞んでいても、目の前で動いたのだから気のせいではない。それは確かに魚の尾ビレだった。それもかなり大きい。少なくとも少し前に釣り上げた尺イワナのものとは違っていた。

-- つづく --
2004年04月18日  沢田 賢一郎