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高原川編  --第83話--
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高原川本流への出会いに橋が架かっている。

黄金イワナ

蒲田川と平湯川の出会いから5kmほど下ると、右岸から一本の沢が流れ込んでくる。沢と言っても、大小様々な岩が折り重なった川原に、僅かばかり水があるだけだ。しかし奥は深く、上り詰めると海抜2900mの笠ヶ岳に達することから、その支流に笠谷と言う名が付けられていた。

笠谷の水が涸れたように少ないのは、合流点から暫く上がった所に取水口があるためだ。そこより上流は笠谷本来の水量を取り戻すため、渓相は変化に富み、遡行するのが楽しい渓谷が何処までも続く。

私が笠谷に初めて分け入ったのは、1985年の夏、8月の暑い盛りだった。その日、私は朝食を済ますと、その頃からしばしば一緒に釣りをするようになった加藤庄平と共に、谷の奥を目指した。我々は先ず林道をバイクに乗って進み、取水口の上流に達したと思われる頃合いを見計らって、谷に降りることにした。

地図で見る限り、林道が川にそって延びている。しかし谷が深いため、道から川を見ることはできない。水音も聞こえない。降り口を決めるのに、山の切れ込みから見当を付ける以外、他に方法がなかった。山肌に人が降りた形跡は全く無かった。我々は木の幹にすがりながら、急な斜面を降り始めた。
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合流点近くの川原。取水されているため、水はほとんど流れていない。

谷は想像していたよりずっと深かった。折角降りたのに、そこが崖の上だったらどうしよう。仮に何事もなく降りられたとしても、このコースを登ることを考えると、帰りが思いやられる。そんな心配事が脳裏にちらつき始めた頃、木々の間からやっと川原が見えてきた。良かった。険しい岩場ではなかった。

先行者

川原に降り立つと、上流側の斜面に大きな木苺が2本生えているのが見えた。離れた所からでも一目で判るくらい、オレンジ色の見事な実を、枝が垂れ下がるほどたわわに実らせていた。これ程のご馳走に巡り会うことは滅多にない。我々は幸運に感謝し、燦々と降り注ぐ太陽の光を背に浴びながら、両手一杯の果実を口に放り込んだ。

2本目の木に移ったとき、枝が1本折られているのが見えた。やはり誰か来ることがあるようだ。真夏の炎天下、木苺は砂漠の中のオアシスみたいなものだから、我々の前に来た人も、目ざとく見つけたに違いない。

甘酸っぱい果汁で喉を潤すと、我々は目の前の瀬にフライを投げてみた。魚が居るのかどうか判らない川を釣るとき、大きくて、見失うことのないドライフライを最初に結ぶ。パイロットフライと呼ばれるフライだ。私はこの時、10番のマセ・オレンジを結んでいた。
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陽当たりの良い区域にいる魚は明るい色をしている。この年に完成したスーパードリフト・パワースペイと共に。

一投目、水面のフライと同じ速度で川底を流れてくるものが目に入った。脇腹に白い斑点が見える。イワナだ。
「庄平さん、イワナが居た」
「居る、居る」ほぼ同時に彼も魚影を確認した。

イワナは2投目もフライの下を泳いできたが、浮上する気配は全く無かった。理由はわからないが、粘っても釣れそうにない。我々は先に進むことにした。

魚が川に溢れ、一日に100匹以上釣れる川でも、魚の釣れ方は一様でない。地域と言うか範囲と言うか、川には良く釣れる場所とそうでない場所がある。人間がその違いを外見から判断することはできないが、水中の魚にとって、住みよい地域とそうでない区間の差は歴然としているのだろう。

我々の降りた場所は、どうも後者のようだ。こんな時は良い区域に到達する迄、早足で移動するのが得策と言うものだ。
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10番のマセ・オレンジ。パイロット・フライとして、またイブニングライズ用のフライとして良く使用した。

更に二つのプールを探った所で、川は大きく右にカーブしていた。そのカーブを半分曲がった所で、私は下流側を眺めた。何の特徴もない景色がそこにあった。目立つ岩も大きな木も無い。夕方、薄暗い時に急ぎ足で戻ってきたら、きっと降り口に気付かず通り過ぎてしまうだろう。安全のため、この先が登り口と言う意味の目印を作ろう。

私は川岸に生えている雑木から、葉の付いた1mほどの枝を一本折り、帰りも通ると思われる川原の真ん中に立てて置くことにした。

丁度良い平らな場所に向かった時、その砂の上で足跡のようなものを見つけた。人間の足跡にしては歩き方がおかしい。何だろうと思いながら、私は枝を立てるための石を拾おうとして思わず手を止めた。目の前の石の上に大きな糞が在った。決して古いものには見えなかった。我々より前にあの木苺を頬張っていたのは、この糞の落とし主であることに間違いない。
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底石が黒くなってくると、イワナの色も変わる。

私は静かに立ち上がり、見える限りの川原と山肌を見渡したが、黒い影は無かった。私は先行していた加藤庄平にそのことを告げ、見通しの悪い所に差し掛かったら、早足で飛び出さないことを申し合わせて上流に向かった。

谷に降りてから、凡そ2kmほど飛ばして釣り上がったが、状況は変わることがなかった。明るい川原に魅力的な瀬と淵が絶え間なく広がり、フライを投げるたびに期待が高まった。しかし何時までも肩すかしされているようだった。
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笠谷との出会い付近の本流。たびたび取水されるため、下流域でも水量が増えない。

魚が居ない訳ではない。これぞと言うポイントからは何らかの反応があった。しかし出てくる魚はそのポイントの規模に相応しいものでなかった。そうだからと言って、諦めて戻るほど空っぽでもなかった。そんな中途半端な、しかし川相の見るからに美しい渓谷が続いていた。

谷が美しいからと言って、魚が居るわけでもない。これは良く耳にする話だ。魚が沢山釣れる川に、つまらない景色の川が多い。これも事実だ。

イワナの巣窟

谷が深くなり、川原が急に狭まってきた所で、我々は持参した昼食を摂ることにした。この先は暗く、視界も狭くなりそうだ。この谷の住人のことを考えると、見晴らしが良い内に食事を済ませて置きたかった。

川が左にほぼ直角に曲がった所から、川相は大きく変化した。滑り台のような滝が連続して現れ、川底の石も黒くなった。ところがその滝を二つばかり超えた所で、魚が急に飛び出してきた。25cm前後のイワナが、ほとんど全てのポイントから浮上して、迷うことなくフライを飲み込み始めた。
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本流のヤマメ。その体型から、イワナとは随分違った食生活を営んでいるのが判る。

平坦で明るかった渓相が、このように傾斜がきつく暗くなると、それまで居た魚が急に見えなくなるのが普通だ。明らかにいつもと逆の現象だった。痕跡は見えなかったが、下流から渓相が変わるまでの区間を釣る人が少なからず居るのだろうか。それとも岩肌が変化したことから想像するに、魚にとって嬉しくない性質の湧水がこの付近から湧き出ているのだろうか。

川原が全くないため、我々は同じ所を歩かなければならない。私は次々に現れるポイントを加藤庄平と交互に釣った。互いに10匹ほどのイワナを釣り上げた頃、一際大きなナメ滝が目の前に現れた。滝壺は狭かったが、深い溝となって斜めに走っていた。

これまでの状況からして、間違いなくイワナが居ると思えただけでなく、これまでと違うサイズの期待もあった。私はその濃い緑色の溝に、新しく付け替えたばかりのフライを浮かべた。

-- つづく --
2004年06月06日  沢田 賢一郎