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高原川編  --第85話--

魚止め

最初に遡行した時の面白さが忘れられず、我々は翌1986年の夏、再び笠谷の源流を目指した。前年に入ったのは8月だったため、夕暮れが早かった。今度は時間に余裕が持てるようにと、6月の天気の安定した日を選んで入ることにした。

入渓するコースは前回と同じだったから、何の心配もなかった。見覚えのある斜面を下り、あっさりと川原に降りた。どんな場所でも、2回目は短く感じられるものだ。
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明るい森の中で釣れたイワナ。

未だ食べられるような実は付いていなかったが、木苺も健在だった。川原を注意深く見渡すと、2箇所に足跡と少し古い糞があった。この辺りは彼らの通り道なのだろうか。不意に少し前、宝山荘で食べた熊鍋の味を思い出した。我々が仲間の肉を食べたことを、彼らに知られることはないだろう。

肝心のイワナはどうだろう。去年と同じか、或いは季節による違いが有るだろうか。我々はそれを気にしながらフライを投げてみた。イワナは確かに居たが、反応は悪かった。少なくとも滑り出しは去年と何も変わることが無かった。

下流部の魚が薄いことは判っていたから、我々はハイペースで釣り上がった。去年金色のイワナを釣ったナメ滝の周辺から、同じように魚が増え始めた。そのナメ滝を越えると、谷は再び明るくなる。この前は魚が薄かったが、その日は飽きない程度に魚が出てきた。
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陽当たりの悪い場所では、それらしい色のイワナが釣れる。

午前10時頃だったと思う。目の前の水面から黄色い大きなメイフライが飛び上がった。気を付けて見ると、川原の上をあちこち飛び回っている。メイフライのハッチが一斉に始まったようだ。

イワナの住む源流域で、このメイフライのハッチは一年に一度のお祭りだ。私は過去に何度かそれに遭遇したことがあった。何れの場合も、その谷に於ける記録的な釣りをした。今日は凄いことになりそうだ。

予想は当たった。谷中がまるで沸き立っているようだった。あちこちのプールでイワナがライズを始めている。
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ゴールド・メイ

私はフライボックスを開けると、奥の方に埋もれていたフライを取り出した。10番のフックにゴールデン・フェザントの黄色いバックフェザーを取り付けた大型のメイフライで、年間にほんの数回使うかどうかのパターンだ。そのフライにとって正に格好の出番がやって来た。

イワナの反応は素晴らしく早く、的確だった。テールを持ち上げたゴールド・メイは、着水と同時に水中に引き込まれることさえあった。イワナは何の警戒もなくフライを飲み込んだから、合わせに失敗することも無い。その代わり口の奥深く飲み込まれてしまうため、フライの損耗が早かった。

最初の1本は10匹釣らないうちに、ぼろぼろになってしまった。2本あった内、残りの1本も暫く後に浮かなくなってしまった。

廊下

遡行のペースを速めていたせいで、我々は正午前に前回引き返した沢の出会いに着いた。ここから先は未知の領域だ。谷はどんな顔を見せるのか、少しばかり緊張した。

川幅は少しずつ狭くなってきたが、視界は開けており、危険な場所もなかった。1時間程過ぎたとき、目の前に突然滝が現れた。2mほどの直瀑で、その下に大きな滝壺を広げていた。試しにフライを投げてみたが、案の定、反応は無かった。先程から魚の影が次第に薄くなっている。
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スペックルド・セッジ(左)とブラウン・セッジ。真夏のテレストリアル・パターンとして、イワナ釣りに使用した。

我々は左側の大岩に登って落ち口を迂回し、滝の直ぐ上に出た。そこから先は渓相が一変していた。空は開いていたが両岸が狭まり、岩盤に囲まれた、いわゆる廊下状の様相を呈していた。川底も岩盤に覆われていて、所々に大きな岩が座っていた。

沢登りにとって綺麗で爽快な景色だろうが、魚にとって決して住みよい渓相でない。大水が出れば、逃げる所が無いからだ。それは魚を釣りに来た我々にとっても同じことだった。歩いている最中に、黒い影が数匹走ったのを見ただけだった。

廊下状の谷が終わった所で、数匹のイワナがフライに飛び出してきた。やれやれほっとしたのも束の間、行く手に先程と同じような直瀑が見えてきた。我々は再び左を巻いて、滝の上に出ることができたが、その上は更に狭い廊下が続いていた。

魚の姿は全く見えなかった。イワナが住むには何の不足もない水量が流れていたが、渓相は彼らが住むのを許してないのだろう。狭い廊下が終わる所で、岩肌に張り付くように泳いでいる小さな影を数匹見つけた。その姿はイワナと言うより、ヤモリか山椒魚のようだった。
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剥き出しの岩肌が狭い谷の両岸にそびえ立っている。廊下を抜けても、谷はクレバスの底のように、狭い水路のようであった。台風や雪解けの季節、年に数度は谷そのものが、一本の長い滝になってしまうのだろう。魚の姿が見えなくなったのを確かめ、我々は帰途につくことにした。

黒い霧

4時近くになって、我々は沢の合流点まで降りてきた。さすがに足が火照っている。暫く休憩しながら、帰り道について、以前から話し合っていたことを改めて検討した。

去年と同じように、このまま1時間掛けて川通しに下り、そこから林道に上がるルートが一つ。もう一つはここから斜面を登り、直接林道を目指す方法だ。
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餌の少ない源流部のイワナは痩せている。

下流に下れば、川原を1時間遡行しなければならない。その代わり、様子はすっかり判っている。一方、ここから上がれば、遡行に注意を要する川原をもう歩かなくて済む。しかし道がある訳ではないし、登ったことも無いから、多少の不安がある。
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笠谷に限らず、この付近に流入する支流は源流部が険しい。

地図によれば、林道は支流を跨いでいる。支流より下流側を登るのだから、迷ったとしても、上にさえ登れば必ず林道に出られる。そこまで話すと、どちらからともなく、新しいルートを開拓しようと言うことになった。

私は靴の紐を結び直すと、枝に掴まりながら急な斜面を登り始めた。藪をかき分けながら50m近く上がると、小さな尾根に到達し、急に視界が開けた。私はその尾根に、まるで地を這うように生えていた樅の木に乗り、行く先を窺った。尾根より先は藪もなく、森の中に歩きやすそうな明るい斜面が続いていた。

「庄平さん、このルートで正解のようだ」

私はそう叫んで後を振り返った。一瞬、空が暗くなったように思えた。それが無数の蜂が飛び交っているためだと知った時、私はもうその羽音に包まれていた。

「逃げろ、蜂だ」

私はそう叫びながら下の斜面に飛び降りた。同時に首筋に激痛が走った。我々はそれまで登ってきた斜面を転がるように降りた。幸い藪を抜けたため、追ってきた蜂はいなかった。

ほっとして我に返ると、首の後がひりひりと痛んだ。襲ってきたのは地蜂と呼ばれる黒スズメバチだ。彼らの巣穴の上を覆っていた樅の枝に、私は乗ってしまったようだ。大スズメバチで無かったのが、不幸中の幸いだった。

我々はその後、斜面を登り詰め林道にでた。ところがせっかく到達した林道は、急傾斜で下る一方だった。結果的に随分遠回りする羽目になった。しかも予想外の痛みを伴って。

-- つづく --
2004年08月08日  沢田 賢一郎