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アイルランドの夏、ロシアの秋  --第1話--

バリシャノン (Ballyshannon)

1995年7月の後半をノルウェーで過ごした我々は、日本に帰る前に数日間アイルランドに立ち寄った。アイルランドはご存知のようにサーモンフライ発祥の地である。私の興味は当然のように、近年余り芳しくないと言われているサーモンフィッシングより、サーモンフライを育んだ環境そのものにあった。

8月初めのダブリン(Dublin)は夜遅くなってもかなり蒸し暑い。ノルウェーと比較するとかなり日本に近い気候で、少なからず親近感を覚えたが、夜明け近くまで街中で飲んで騒いでいる人が多いのには少々驚いた。日程の都合でリバー・シャノン(River Shannon)が流れる南側を回れなかったのは残念だったが、北側をぐるっと回って、往時の面影を探った。
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ローガン・オブ・ドネガル(Rogan of Donegal)。
ローガンのショップは今もバリシャノンの橋のたもとに残っている。

最初の目的地はバリシャノンである。ここにはかの有名なローガン(Rogan)のショップがある。ローガンの名を歴史に刻んだのは、ご承知のように1833年生まれのマイケル・ローガン(Michael Rogan )である。彼はパット・マッカイ(Pat Mckay)やウィリアム・ブラッカー(William Blacker)が、南のリバー・シャノン(River Shannon)を舞台にシャノンスタイルのバタフライ(Butterfly)を巻いて、豪華なサーモンフライのスタートを切った後、アイルランドを代表するドレッサーとして長い年月活躍した。そのマイケル・ローガンは酸性水の流れるリバー・アーン(River Erne)でも退色しない染料を使って、フリーファイバー・ウィングという独特のフライを巻き上げた。私はそのフライは勿論のこと、その舞台となったリバー・アーンをこの目で見たいと思っていたから、リバー・アーンの上流にあるロック・アーン(Lough Erne)という湖沿いに車を走らせている間も、期待に胸を膨らませていた。

ところがバリシャノンに着いてみると、そこにはダムに水を奪われた哀れな水路だけが残っていた。私は160年も前の景色がそのまま残っていることを期待していたのだ。本当は川が昔のままに流れている方が不思議なのだろう。判ってはいるが、せめて雪解け水の流れる初夏に訪れればよかった。

それでも初めて訪れたアイルランドの風景は、私にとってとても興味深く、名所旧跡と言うより、何やら古代の遺跡を巡っているような印象であった。
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ビート上流の瀬をスペイキャストで釣り下る。魚の気配が感じられない。

リバー・フォイル (River Foil)

翌日、我々は気分を一新してサーモンフィッシングをスタートした。場所はリバー・フォイルという北アイルランドを流れる河川である。河口はかなり立派だったが、真夏の最中である。上流部に向かわないと魚が居ないと言うわけで、ギリーに案内されて向かったのは源流に近いビートだった。しかし着いてみてびっくり。乾ききった牧場の谷間に、コーヒーのような色の水が大人しく流れていた。水温を計ると、未だ朝だというのに20度以上もある。本当にサーモンが居るのだろうか。数日前までロッドを振っていたノルウェーの川とは何という変わり様であろう。最悪の予想をしていたが、一目見ただけで疲れがどっと吹き出てきたのは、暑さのせいばかりではなかった。

我々はギリーに案内されるまま、駐車場から牧場の中を上流に向かって暫く歩き、林を抜けて谷に降りた。川は浅く、なだらかな瀬となってそこに流れていた。強い日差し、牛の臭いに草いきれ、なま温かい水。どれをとってもこれからサーモンを釣ると言う実感がわいてこない。紛れもなく、子供の頃に鮎釣りをした時のようだ。

マリアンと私は狭い岸ぎわに立ってスペイキャスト(Spey cast)を繰り返しながら釣り下ったが、瀬の頭から始めて10分足らずでフライをくまなく流しきってしまった。僅かな魚の気配も反応もない。2回流しても無駄とは思ったが、時間を消化するつもりでもう一度、瀬頭に戻った。
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下流にある大きなプールを釣る。流れが緩く、ほとんど池のようだ。

午後は駐車場の下流に見える広いプールを釣ることになった。水が動いていないので、水たまりと言った方がぴったりだ。その僅かに水が動いている流れ込みを釣っていると、対岸ぎわの水面が微かに動いた。私にはハヤかフナのモジリのように見えたが、ギリーに話すと、彼はサーモンだと言う。私はまさかと思ったが、対岸ぎりぎりに12番のシュリンプフライ(Shrimp)を投げてみた。フライを落とした付近の水は幾らも動いていない。いかに軽いとは言え、フライはただ沈むだけだ。私がロッドの先を少しずつ持ち上げていると、ギリーが手でラインを手繰るよう勧めるものだから、それに従って左手で小刻みにラインを手繰ってみた。まるで湖でウェットフライを投げているような気分だ。ところが数投目、手繰っていたラインから小さな当たりが伝わってきた。私が慎重にロッドを起こして針掛かりさせると、60センチほどの細長い褐色の魚が殆ど抵抗もせずに足下まで寄ってきた。それがサーモンだと確信するまで、私には少しばかり時間が必要だった。その魚はそれくらいサーモンらしくなかった。

夕方、池のような淵で急にサーモンが跳ね始めた。川の規模に似つかわしくないほどの数に見えたが、ギリーが言うように最大で4kgほどであったように思う。

アイルランドには高い山がない。やはりこの釣りに夏は不向きなのだろう。この次に来ることがあったら、必ず春か秋にしよう。我々はそう言いながら初めてのアイルランドをあとにした。

-- つづく --
2001年03月26日  沢田 賢一郎