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アイルランドの夏、ロシアの秋  --第6話--

ラットプール(Rat Pool)のハーリング

その翌日、我々は朝からラットプールへ向かった。前日楽しい思いをしたロアー・ラットプールを駆け上がった所に広がる、どう見ても湖としか思えないプールである。我々が支度を終えるとニコライはボートを手で漕ぎ始めた。ラインを伸ばしてハーリング(Hauling)を行うと言うのだ。ラットプールは小さな湖ほどの大きさだが、中央部に流れの筋が微かに見える。丁度潮目のようだ。ニコライはその筋に沿ってゆっくりボートを漕いでいる。我々はハーリングでサーモンを釣ったことがないので、どうなることか興味津々であった。湖の中央付近に差し掛かったとき、マリアンのロッドに変化があった。コツコツと小さな当たりが数回続けてやって来ている。しかしそれ以上何も起こらない。魚は止めもしないし、それ以上引きもしない。彼女はさすがにしびれを切らし、ロッドを思い切り魚の方に伸ばした後、静かに持ち上げた。何の手応えもなくロッドは空を向き、当たりも消えてしまった。何という魚だ。全くやる気がない。そうこうしている間に、私のロッドにも当たりがやって来た。最初からかなりはっきりしているし、その後にもう一度更に強い当たりが伝わってきた。私は少しばかり早いと思ったが、安心してロッドを持ち上げた。ロッドはそのまますっぽ抜けてきた。これには参った。流れのない場所で上手にフッキングする方法を覚えないと、ウンバでは釣れない。アイルランドやスコットランドの湖でサーモンを釣っている人たちは、一体どんな合わせをしているのだろう。あらためて教わりたくなった。
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フッキングに関して、我々はブラッドプールで多くの事を学んだ。
時間が掛かっても、フッキングに成功した魚の顎には、フックがしっかりと刺さっている。

ニコライは一通り流れの筋を流し終わると、湖の中央にある小さな半島の近くでボートを止め、ここからフライを投げてみようと言った。この付近にサーモンがよく止まっているらしい。我々にとってまたまた驚きである。ボートの上から岸に向かってフライを投げ、ロッドを小刻みに振ったり、ラインを手繰ってフライを泳がすのだ。湖で鱒を釣るのとまるっきり一緒である。何回か投げているうちに当たりが有ったが、丁度ラインを手繰っているときだったので、ほぼ自動的にフッキングしてしまったようだ。私は既に魚の重さを感じているロッドを起こし、足下に広がっているラインを素早く巻き始めた。やがて魚を船縁まで引き寄せ、そろそろ顔が見えるかなと思った頃、フックが外れて返ってきた。私はしばし頭を抱えてしまった。どうすればここの魚達を確実にフッキングできるだろうか。ニコライは、今日はサーモンの食いが悪いから仕方がないと言うが、それでもフッキングに失敗したことに変わりない。

ブラッドプール(Brad`s Pool)のフッキング

午後の釣りは直ぐ下流のブラッド・プールから始まった。このプールは広い湖が急流になって流れ落ちる、その吐き出し口を釣る。遡上する魚にとって、長い急流を上りきった場所にあたるから、多くの魚がそこで一休みする。即ち絶好のポイントと言うことになる。我々はこの場所をそれまで数回釣っていたが、確かに毎回必ず釣れた。この日も同じようにアンカーを打ち、少しずつ流れ出しに近づきながら釣り下ることにした。食事中、我々はどうすればあのやる気のない魚をフッキングできるか、いろいろ話し合っていた。この問題はその後も我々を悩まし続け、数年後のノルウェーでは「レイジー・フィッシュの渋々コンタクト」と言う呼び方までできたほどである。
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湖の流れ出しに相当するブラッドプール。この先、川は長い急流となって駆け下る。

ボートの繋留を終えると同時に、我々はフライを交互に投げ始めた。ほんの数投後、私のリールが逆転した。当たりがやって来たのだ。実は魚がフライをくわえるのと同時に、リールが滑らかに逆転するよう、釣り始める前にリールのドラッグをぎりぎりまで弱く調整して置いたのだ。魚の走りようによっては、バックラッシュを起こしかねない程の弱さだ。当たりがあったとき、普通ならロッドの先に感じるのと同じだけのショックが魚にも伝わるが、リールが逆転したおかげで、魚に与えた違和感は少なかった筈だ。私はラインの張りを緩めるため、ロッドを静かに魚の方に向けた。弱い当たりが小刻みに続き、そのたびにリールが短い音を発した。しかし魚はそのまま動こうとしない。私もロッドを一切うごかさないことにした。何ともおかしな持久戦が始まった。「いい加減に走れ」そう口にしながら私は待ち続けた。気が遠くなるほどの長い時間、多分30秒か40秒が過ぎた。フッキングするために必要とした時間として、私には経験の無い長さが更新されていった。魚は相変わらず動かない。それも不思議だったが、フライを放さないのも不思議だった。私には別の興味がわいてきた。一体このままの状態がどれだけ長い時間続くのだろう。「こうなったら意地でも合わせないぞ。」

本当に呆れるほど長い時間が過ぎ、魚はやっと、それもとてもゆっくりと下流に向かった。リールがゆっくり回転を続ける。途中でその速度が急に速くなったのを確認して、私は初めてリールに手をかけ、ラインを止めた。私がこのおかしな持久戦に勝ったことを告げるずっしりとした重さが、初めてロッドに伝わってきた。一部始終を見ていたマリアンは、私より更に忍耐強く動かないでいた。ボートの上で交互に持久戦を繰り返した結果、フッキングの確率はこの日を境に飛躍的に向上した。この川ではフッキングが如何に大切かが判る。何よりの証拠に、ボートの上から釣る限り、私とマリアンに差は無いのだ。

第一週目はこんな状況で終わった。記録を見ると、この週の平均気温は8度、水温は5度。10人のアングラーによって87匹がランディングされ、そのうち19匹を私が釣ったことになった。最大サイズはこのブラッド・プールで私が上げた21ポンドであった。

-- つづく --
2001年05月26日  沢田 賢一郎