www.kensawada.com
アイルランドの夏、ロシアの秋  --第9話--

オフィスプール(Office Pool)のファイト

あと数日を残すだけになった時、空模様がおかしくなってきた。煙ったような雨が断続的に降る中、我々はこれが最後となるクリベッツの森を歩いていた。ここ数日の間に森の様子が急変した。樺の木は真っ黄色に、足下のブルーベリーの葉は真っ赤に染った。離れて見るとまるでこの世のものと思えないほど、森は美しく黄金色に輝いていた。しかしこの雨のおかげで落葉が一気に始まり、見る見るうちに枯れ枝だらけの寂しい姿に変わっていった。河原も水面も、おびただしい数の金色の葉に覆われていた。ここでは美しい紅葉が、一週間も保たない。冬が直ぐそこまで駆け足でやってきている。
ff-9-1
オフィスプール。瀬の中にある馬の背に立ち、流芯側にフライを投げる。

その日はクリベッツの中程にあるアイランド・プールから釣り始め、そこからゴムボートに乗って直ぐ下流にあるオフィス・プールへ下った。このおかしな名前のプールは長い瀬を下った所にある。川がそこでS字に曲がっているため、コーナーの内側に流れの緩い池のような部分ができている。プールと言うより、ちょっとした淀みだ。そのコーナーの下流は、歩いて30分かかる遙か下のジャンクション・プールまで、急傾斜の瀬が延々と続いている。つまり2km以上も続く急流の上の方に、僅かにできた淀みを釣ることになる。
ff-9-2
投げ終わったロッドを対岸に向け、フライになるべくゆっくり瀬を横切らせる。

私は瀬の中にできている小さな馬の背の上で、ボートから降りた。そこは川幅の丁度真ん中辺りだ。流心の通っている左岸までの距離は30メートルにも満たないから、流心いっぱいにフライを流すことが容易にできる。ただし馬の背は狭く、ほとんど動けない。足場が悪いため、マリアンとニコライは右岸に上がって撮影を始めた

大きな岩が一つ水面から頭を出している。私は安全のため、その陰に立った。急流を上ってきたサーモンは、私の真下に広がっている流れの緩い部分で一休みするのだろう。私はフライとリーダーを再点検した。このロシアに出発するほんの少し前に試作した16フィートのマイナス6xの先に4番のダブルフックを結んである。強度はリーダーの方が上だから、フックの強度だけを気にすれば良いだろう。私はそんなことを心配しなくて済むことを願いながら、手始めに5メートルほどラインを伸ばし、左側の流心にフライを落とした。落下と同時に下流に流されたフライが、急流を横切ってその淀みに入っていく。一投するたびに1メートルほどラインを伸ばし、少しずつ流れを横切るラインの弧を下流に広げていった。
ff-9-3
魚の当たりを感じ、ロッドを静かに下流に送り込む。

5回ほど投げただろうか。私はロッドを右岸側に倒し、淀みに入ったフライを更に岸寄りに泳がせた。いつまでも無い当たりに、諦めてロッドを持ち上げた瞬間、待ちに待った当たりがやってきた。しかし私は既にロッドを動かしている。私は懸命にロッドを下流側に倒し、それでも足りないので、咄嗟にラインをリールから引き出して緩めた。際どいタイミングだったが、間一髪間に合った。フッキングに成功したのを確信してラインを強く張ると、手応えが軽い。私はその場を一歩も動かず、魚を強引に引き寄せた。本来ならこんな瀬の中でサーモンを取り込める筈は無いのだが、寄ってきたサーモンはひどく痩せていて、まるで産卵を終えた魚のようだった。私はフックを外して魚を放すと、再び同じ場所から釣り続けた。そこから更に数メートルのラインを伸ばし、フライが淀みの下流側の端に近づいた時、力強い当たりがやってきた。私の体は自動的にそれに反応し、残り少ない4番のナイトホークをそのサーモンにしっかり結びつけた。
ff-9-4
頃合いを見計らってロッドを岸側に向け、ラインを思い切り張って確実にフッキングさせる。

フッキングに成功すれば一安心。ウンバではその筈だったが、このプールは少しばかり様子が違う。私は最初の魚のように上げられるかどうか、試しに引き寄せてみた。2メートルほどラインを巻いたところで、サーモンは激しく首を振って抵抗した。当たりを感じたときから、小物ではないと思っていたが、どうしてなかなかのサイズだ。どうすれば良いだろう。私は一瞬背中がぞくぞくするような寒気を覚えた。魚は急流と淀みの境目にいる。瀬に入られたら万事休すだろう。何とか流心から引き離して池側に誘い込みたいが、無理をしたら走られてしまう。少しでも走られたら、そこは2kmも続く急流である。どうにもならないのは、目に見えている。私は魚を不必要に刺激しないよう、静かに、ゆっくりとラインを巻き取り、魚との距離を縮め始めた。

「大人しく上がって来い」私が魚にそう話しかけながら、3メートルほどラインを巻き取ると、魚は急に嫌がって元に戻る。それを繰り返す度に冷や汗がでた。しかし何回もそれを繰り返すうち、魚は僅かずつ近寄り、大人しくなってきた。


-- つづく --
2001年08月26日  沢田 賢一郎