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濁流と渇水  --第2話--
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使用するラインとフライを相談して決めない。その結果が興味深い。

すれ違い

フォスが開いた。4週目になって漸く水位が下がり、下流にたまっていたサーモンが一気に遡上を開始した。洪水はなかったが、結局、前年と同じように4週目から実質的な釣りが始まった。喜び勇んで川に浸かり、フライを気が済むまで投げ続けたが、魚の姿は見えない。フォスを越えたはずの魚は何処にいるのだろう。去年と全く同じ状況が巡ってきたというのに、相変わらず判らないことだらけだ。

期待し続けて2日間が過ぎた。幸い川に居るアングラーの人数が少ないから、我々は殆ど何処でも自由に釣りができた。しかし魚は影も形も見えない。

3日目の朝、我々がずっと上流のプールを釣っていた時のことだ。私は長いプールを渕尻まで釣り終え、再び流れ込みに戻ってフライを投げ始めた。雪代を多量に含んだ水温6度の水が河原いっぱいに流れ、水面にうっすらともやが立ちこめていた。
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間隔を開けて釣り下る。先に下った方が釣れるとは限らない。

何故、魚は見えないのだろう。水温が低すぎて遡上する速度が余程遅いのか。それとも猛スピードで遡上してしまい、もうずっと上流に行ってしまったのか。私の頭の中はそんな結論の出ない疑問で一杯になっていた。

流れ込みの際から釣り始めて10メートルほど下ると、流芯と岸との間に流れの緩い場所ができていた。遡上してきたサーモンは、ここで一休みしてから私の背後の急な瀬を上るのだろう。この辺りにサーモンが居てもおかしくないのに。

そう想いながら見つめていた水面から、不意に巨大な魚が、まるでマグロかイルカのように上半身を露わにして飛び出した。私とは目と鼻の先の距離である。突然の事に、私は息苦しくなるほど緊張しながらラインを手繰り、直ぐにフライを投げた。私が結んでいたフライ、それは昨年、この同じプールで立て続けに2本のサーモンを釣り上げたオレンジ・フレームだった。その実績を持つフライが今、あのマグロのような魚の鼻先を流れている。そう思うだけで、心臓が喉から飛び出さんばかりに鼓動を打った。しかしロッドの先に何も伝わって来ない。私は狂ったようにフライを投げ直したが、それから数分後に大きく息を付くまで、何事も起こらなかった。しかし私の見た物は決して幻ではない。顔付きまではっきり覚えていた。
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頭に血が上らない分、女性の方がフッキングが上手なような気がする。

サーモンは跳ねない。潜水艦のように潜ったまま静かに遡上しているのだ。流れ込みの際で姿を現すのは、そのプールに別れを告げる時だ。だから、姿を見た時はもう遅いのだ。けれども、あのタイミングで姿を見たと言うことは、その前に私が下流を釣っていた時、彼とすれ違った事を意味する。タイミングが悪かったのか、それとも私が結んでいたフライ、オレンジ・フレームが気に入らなかったのだろうか。

後ろのマリアン

私は河原のハットで休んでいるマリアンに合図し、サーモンがいたこと、それが大型だったこと、悔しいがすれ違ってしまった事を告げた。そして更に、休んでいないで私の後ろに入って釣るよう、身振りで伝えた。

魚は遡上している。潜水艦のように見えないだけだ。しかも交差しながら私のフライを無視して遡上を続けた。あの魚をなんとか止めるには、張る網の数を増やすのが一番だろう。
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後ろのマリアンが止めたサーモン。数分前にこの魚とすれ違うなんて。

マリアンは私が50メートルほど釣り下がったところで流れ込みに入り、ロッドを振り始めた。私は振り向いてそれを確認すると、続けて釣り下った。それから更に20メートルほど釣り下ったろうか。私は水音の合間に叫び声を聞いたような気がして、後ろを振り返った。私の目に入ったのは、大きく曲がったまま動かないロッド、そして空に向かって突き上げた彼女の拳だった。私は一瞬、我が目を疑った。まさか、そんな。

大急ぎでラインを巻き取り上流に向かう間、これは何かの間違いだ。そんな想いが未だ心のどこかに残っていた。しかし、私が息を切らして彼女に近づいた時、ロッドが大きくしなっていただけでなく、けたたましいリールの回転音が、それが冗談ではない事を私に宣告していた。

私は自分のロッドを近くの木に立てかけると、彼女の脇に立って応援し始めた。強い魚だ。既に50メートルほど走ったというのに、ラインがジリジリと引き出されていく。ゆっくりではあるものの、リールの音が止まない。私は無理をしないことだけを告げながら様子を見た。もう少し下流に下ると、流れが緩くなる場所がある。以前、私がこの場所でファイトした魚がそうだったように、きっとそこで止まるに違いない。
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113cm、13.5kg。サーモンIIのリールがトラウトリールのように見える。6月の雄は、大きくても美しい。

案の定、更に20メートルほど下ると魚は流芯に張り付いて止まった。その後、数回に亘って激しいやりとりがあったが、サーモンは遂に彼女の大きなポンピングによって引き寄せられた。岸近くで浮上した時、顎の曲がった巨大な頭が見えた。少し前に見たのと同じ、精悍な雄の顔がそこにあった。

私はその顔に見とれていたが、彼女の好きなガウラパーソンが見えない。完全に飲み込んでいるのだろう。私はほっとしたが、それでも慎重にサーモンの背後に回り、尻尾の付け根に手を添えて岸に押し上げた。大きかった。私が抱えたアトランティック・サーモンの中で最大であった。長さ113センチ、体重が13.5キロもあった。

魚を持ち帰った途端、大騒ぎになった。その時点で、この年一番の大物だったこと。誰も釣れない時に釣ったこと。そして最もウケたのは、私の後ろに入って、私とすれ違った魚を釣り上げたことだった。
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片手ではこれ以上持ち上がらない。

3度目の3匹

マリアンの一匹がこれまで続いていた希薄な空気を変えた。私は最後の3日間に、まるで過去2年間の釣りをそのまま再現したように3匹のフレッシュ・フィッシュを釣り上げた。準備も、経験も、知識も全てそれまでより格段に進歩していた筈だったが、結果は、少なくとも魚の数から判断する限り、同じであった。しかし6月の低水温、高水位と言った条件下に、大型のサーモンが潜水艦ように人目に付かずに遡上している事は疑う余地がなくなった。しかも、それを待ちかまえていても、あっさりすれ違ってしまうことも判った。

よくよく考えてみれば、そんなことは当たり前といえる。サーモンが誰からも見えるように姿を露わにして遡上したり、丁度目の前を通過したフライを全て食べる方が、余程あり得ない事だ。それは判っているが、全く何の気配がなくても、決して諦めてはいけない。言い換えれば、僅かな可能性を信じてロッドを振り続けると言う過酷な釣りが、未来永劫にわたって待ち受けている事になる。たのは、私の後ろに入って、私とすれ違った魚を釣り上げたことだった。
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濁流

この年の6月、私にとってもう一つ忘れることのできない事件があった。マリアンが大物を釣り上げた日、夕方遅くなってから雨が降り始めた。明け方近くになって、かなり雨足が激しくなった後、小雨に変わったので、我々は元気いっぱい川に向かった。ところが道路から一目川を見て愕然とした。河原中に濁流が流れている。洪水と言えるほどの増水ではなかったが、水色は今まで見たこともないほど酷く濁っていた。川沿いに車を走らせていると、誰も居ない川に、たった一人だけアングラーが見えた。増水している川に足を取られないよう、少しだけ水に入ってロッドを振っていた。短いラインを必死に振っている様から、経験豊富なアングラーには見えなかった。確かにそうだろう。この状況で釣りをするのは、何も知らないか、狂ったかのどちらかだろう。そう思える程の流れだった。
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中型のサーモン。2インチのローズマリーをしっかりくわえていた。

我々は暫く先まで川の様子を見るために走った。水は未だかなり多かったが、上流へ行けば行くほど透明度が増してきた。間もなくほど良い状況になるだろう。我々はそれまで暫く休むことに決め、ホテルに向かって引き返した。先ほど見かけたアングラーの前を再び通り過ぎようとした時、何やら様子がおかしい事に気が付いた。彼の背後の河原にラグースが立っている。その足下に白い物が見える。我々が対岸から見ていることに気付いたラグースは、手を振ると、足下の白い物を両手で差し上げた。100メートル近い距離を置いても、それははっきりと見えた。かなりのサイズのサーモンだ。後で聞いたら、14.5kgもあったそうだ。
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小雨の中、最初の一匹が漸くやって来た。

二日連続の悪夢だ。私は半ば後悔しながら呆然とそれを眺めた。本来、増水や濁流は私にとって、どちらかと言えば得意な状況だった。子供の頃からの経験で、集中豪雨や台風が通過した直後の川では、どんな場所に魚が居るか。それを釣るにはどうすれば良いかを知っていた。事実、数年前のスペイでは、濁流となった川で記録的な釣りをした。ここガウラでもそれをやれば良かったのだ。

そう思った時には遅かった。この付近でも水位が下がり始めている。大増水を釣るチャンスは、もう終わってしまったろう。

そのアングラーは平水に戻ってからも、3日間に亘り同じ場所でロッドを振っていた。しかし、再び大増水しない限り、2度と同じ事が起こる筈はなかった。

この出来事を契機に、私はガウラのサーモンに対しても、濁流時の準備を始めた。

-- つづく --
2001年11月04日  沢田 賢一郎