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濁流と渇水  --第3話--

グリルス

2週間後、もう決まり切った事のように、我々は再びガウラに戻ってきた。僅か2週間離れていただけで、川の様子が気になってしょうがない。川は本当に猫の目のようにくるくると変わる。6月と違って、7月は大勢のアングラーが居るし、何と言っても最盛期だから、情報には事欠かない。どれほど釣れているのか早速尋ねたが、答えがどうも歯切れ悪い。手短に言うと、殆ど釣れていないのだ。どうして釣れないのか尋ねると、おおかたの意見は、我々が先月帰ってから7月の1週目まで、水位が高い日が続き、サーモンが再びフォスで止まってしまったと言うのだ。6月と違って水温が高いから、高水位でもフォスを越えるサーモンは幾らでも居ると思うのだが、止まってしまったと考えたくなるほど、魚の気配が薄かったそうである。しかし2週目から水位が下がり、漸く魚がやって来たから、3週目に帰ってきたのは正解だった。そう言われると、何となく嬉しくなるが、やはり魚が少ないのが気になった。
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6kgほどのサーモン。大きくないが、

釣れた魚の数が少ない理由の一つに、グリルスがいない事が大きく影響しているように思えた。初めてやって来た94年は、夥しい数のグリルスが遡上してきた。サイズは2kg前後だから、決して大きくない。しかし釣れれば一匹のサーモンとして記録に残る。グリルスは群れで遡上するし、フライを良く食べるし、釣りやすい所に居るから、遡上数が多い年はサーモンの豊漁年となる。我々が初めて釣りをした1994年は4年に一回のグリルス・イヤーと言われていた。次がその4年後だとすると、去年と同じように今年もグリルスは期待できないだろう。

そんなことを考えながら久しぶりの川に向かったら、そのグリルスがいきなりやって来た。豊漁年でなくても、大きなサーモンに比べれば、その数は決して少なくない。それとも、我々の到着を待って遡上が始まったのだろうか。そんな都合の良い考えが浮かぶほど、それはあっさりと釣れた。

翌日の夕方も、ロングプールと言う浅くて長いプールで、マリアンと私はそれぞれ5kgほどのサーモンを釣った。その内の1匹にシーライスが付いているのが見えた。我々は更に元気になった。本当にフレッシュフィッシュが遡上を開始したらしい。翌朝のビートは私にとって最も実績の高いプールの一つ、ブリッジプールが巡ってくる。このままフレッシュフィッシュが増えれば、期待十分だ。夜になって雨も降り始めたことだし、その晩は翌朝に備えて早めに休むことにした。
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ジャンクションプールからロングプールに向けて釣り下る。

豪雨

翌7月15日の明け方、雨の音で目が覚めた。一晩中降っていたのか、窓から外を眺めると、道路のあちこちに水溜まりができている。我々はいつもより少し早めに朝食をとって川に向かった。幸い雨は小降りになっている。釣りをするには良い天気だ。

ホテルを出ると、ガウラにぶつかる前にソクナと言う支流に架かる橋を渡る。その橋の手前まで来て驚いた。水量が倍ほどに増えて濁っている。水源の山々にかなりの雨が降ったに違いない。ガウラはどうだろうか。我々は、いや、正確に言うと、マリアンは不安げに、私は半ば期待しながら車を進めた。やがて目の前にガウラの広い河原が見えた時、我々は思わず驚きの声をあげた。見渡す限りの河原が濁った水に覆われているではないか。

私はその光景を横目で見ながら、ブリッジプールへ向かった。途中、川に入っているアングラーは、当然のごとく誰一人居なかった。ログネスの橋に着いて下を覗くと、ブリッジプールはバンクの一番上だけを残し、濁流が溢れんばかりに流れていた。
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レペのブロ・プール。増水から平水に向かうと、釣り場は一挙に広がる。

正に私が待ち望んでいた流れだ。この日のために準備してきたフライをやっと試せる時が来た。私は支度を終えると川岸に降りた。水位は2メートル程も高く、普段なら流れが止まりそうになるスリバチ状のプールが、一つの瀬となって流れている。僅かに手前側の岸に沿って、幅3メートル程の流れの緩い場所があった。増水した時、このプールに魚が居たとしたら、今どこに居るだろう。足下に僅かに残された流れの緩い部分、そこを置いて他にない。

私は流れの様子を間近に観察し終えてから、タイプIVのシンキング・ラインを選び、その先に今シーズンから初めて使うマイナス6Xのリーダーを繋いだ。その先に結ぶフライは既に決めてあった。この日のために用意した特大のフライ。そのままセールフィッシュに使えそうな全長15センチの真っ黒なアクアマリンである。
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濁流がブリッジプールのバンク一杯に流れている。その岸際にサーモンがいた。

私は橋の上に居るマリアンに合図してから、水際に立った。狙うのは幅3メートル、長さ15メートルの小さなスポットだ。しかも足下に沿っているから、本当に目と鼻の先だ。

私はラインを引き出して釣り始めた。ロッドの先から僅かばかりフラットビームが伸びている。距離はそれで十分すぎるほどだ。なにぶんにも:濁りがきついから、投げる度に1メートルばかり下った。5回くらい投げたろうか、流れきって手前側に伸びたラインがゴツン、ゴツンと2回引かれた。触ったのは流れてきた木の枝ではない。それは判っていたが、余りに早くやって来た当たりに、一瞬、夢を見ているようだった。

きしむグリップ

私はロッドを手前の岸側に向け、ラインをことさらゆっくりと張った。姿勢を低くし、ロッドが大きな弧を描くまで強く引いたが、それはびくともしなかった。余りにも岸近くだったため、もしやフライが根掛かりしたのではないか。そんな不安が脳裏をかすめた時、それは5メートルほど流芯側に動いた。大きい。流木に引かれるような手応えからして、10kg以上の大物であることに間違いないだろう。それが判った瞬間、私は背筋がぞくぞくするほど緊張し、思わず武者震いがした。平水でも、ここブリッジプールはスリル満点である。よりによってこんな状況でファイトするなんて。

私は目の前を巨大な水路のように流れ落ちる濁流を、改めて見つめた。ひとたび流芯に入られたら、為す術がない。20メートル以上のラインが出たところで、負けが決まるだろう。平水ではないから、下った魚を追うのも不可能だ。

どんなことがあっても魚を流芯に走らせまい。私はそう覚悟を決め、水際から少し下がった平らな場所で腰を沈めた。フックは2番、リーダーはマイナス6X、フライラインは30ポンドテスト、フラットビームは50ポンドテスト。フッキング状態が悪くない限り、何の不安もない。私が手にしているファイティング用の武器の中で、最も弱いのがロッドだ。ロッドが折れさえしなければ、この勝負に勝てる。
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水際から離れ、魚と綱引きのようなファイトを続ける。SS1712Dのバットが曲がり、グリップがきしむ。

私は渾身の力を込めてラインを張った。SS1712Dがこれまで見たこともないほど曲がり、サーモンが大きく頭を振りながら、激しく抵抗している。押さえ付けた手の平の中でスプールが滑り、ラインが10センチ刻みでジリジリと出ていく。ロッドの曲がりは最早極限に達し、コルクのグリップ迄もがきしんでいる。これ以上押さえたら危険だ。その際どい状態を保つうち、サーモンは遂に流芯の際に達してしまった。

濁流の中で魚は長く走らない。様々な魚を釣りながら、私が過去に何度も経験した事だ。それが今の私にとって唯一の希望だった。

サーモンと私との距離は、それ以降、伸びもしなければ縮みもしない状態が続いた。私が僅かなすきを逃さず数メートル縮めると、サーモンは直ぐに元の位置までラインを引き出す。けれども、濁流の流芯に向かって走るのを、明らかに躊躇しているように思えた。
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やっとの事でランディングに成功。ネットが重くて持ち上がらない。

橋の上からこの光景を見ていたマリアンが、私の側まで降りてきた時、私とサーモンはそんな膠着状態にあった。5分以上もの間、ロッドを極限まで曲げ続けていたせいで、私の腕はそろそろ痺れ始めていた。私は、雨で濡れないようカメラにカバーを掛けている彼女に向かって、カメラよりもネットを持つよう頼んだ。魚は一度も走っていないから、なかなか弱らない。弱らないままの魚をランディングするのは、かなり危険が伴う。しかし、この状態で魚が弱るまでファイトを長引かせる訳にいかない。少ないチャンスをものにするには、どうしてもネットを構えて、水際に立ってもらう必要があった。

幸い、河原のハットにネットが置いてあった。私は彼女がネットを広げて水際に立つのと同時に、水際から更に退き、サーモンに対して再び極限のプレッシャーを与え始めた。

ブリッジプールは増水するとバンクがきつくなり、岸際から直ぐに深くなる。それに加えて濁りがきついため、浅瀬に比べ、サーモンを水際まで寄せやすい。寄ってきたところを素早くネットですくってしまおう。私の立てた作戦とはそんなものだった。
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15cmの特大フライも、12kgのサーモンの口の中にすっかり隠れてしまった。

新たに強いプレッシャーを与えたため、サーモンは流れの中を上下に動き始めた。一度下った後、流芯の境目に沿って流れを上って行った。20メートルほど上ると、流れが急にきつくなる。このプールでファイトした魚の多くが、その時点で反転して下流に下る。私はその瞬間を利用して、一気に岸まで引き寄せるつもりでいた。サーモンは案の定、早い流れに差し掛かったところで躊躇した。私はすかさずロッドを下流側に向け、サーモンを反転させると同時に思い切り引き寄せた。上手くいった。サーモンは岸から僅か3メートルばかりの距離まで寄ってきた。私はロッドを再び上流側に向けながらラインを縮めた。ロッドの先が目の前にあり、その直ぐ先にリーダーの結び目が見える。サーモンは水面を割って抵抗した。水が濁っていても、そのサイズが普通でないことが直ぐに判った。

マリアンはこの流れを一目見ただけで、釣りをするのを諦めていたから、ウェダーを履いていない。腕白小僧のようにズボンの裾を濡らして必死でネットを構えているが、なかなかすくうチャンスがない。

しかし私はサーモンの動きから、この時、既に勝利を確信していた。そう思えたから慌てずに機会を窺い、サーモンが自ら水面に浮上した瞬間を逃さず更に岸際まで引き寄せた。

サーモンは、膝まで濡らして待ちかまえていたマリアンのネットに収まった。重くて彼女には持ち上げられない。私は急いで駆け寄り、ネットの枠を持って河原に引き上げ、この戦いに終止符を打った。

-- つづく --
2001年11月10日  沢田 賢一郎