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洪水と日照り  --第4話--

スティングレー

私は支度を終えると水際に戻った。川はやはり酷い濁流だった。ほんの数分川から離れただけで、すっかり気持ちが高揚したと言うのに、その私にまるで冷水を浴びせるかのように流れていた。希望が有るか無いか、その違いで川の印象がそこまで変っている。
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フォスの下流に毎秒2000トン近い水が走る。

私はもう一度気を取り直してビートの境に在る石の前に立つと、この年から新しく用意したフライボックスを開け、迷わず一本のフライを取りだした。去年、濁流のブリッジプールの経験を生かし、更に改良を加えた全長15cmのスティングレー・ロングテールである。私は初めて使うそのフライをシンキングラインの先に結んだ。

風に揺れて目の前にぶら下がっているフライを見ていると、気持ちが落ち着き、同時にファイトが沸いてきた。上流では先ほどのアングラーがフライを投げ始めていた。私は底石の状態を確かめながら流れに入った。

膝の上まで入ったところで、流れがかなりきつくなった。一見して急な流れに見えないが、この付近には大きな石が無い。川の流れ方も単調で、まるで水路のようだった。そのせいで水に入ると流れは重く、足下の小石がみるみる流されていく。
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濁流用に作ったスティングレー・ロングテール。最初の出番がこれ程の洪水とは思わなかった。

岸際の水が綺麗だと言っても、濁流と比べた場合の話で、腰まで浸からないうちに靴が見えなくなった。ウェーディングするにはかなり危険な状態だ。私は深みに入りすぎないよう、慎重に歩を進めた。
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川に少し入っただけで、水圧は予想以上だった。

境目の石からほんの30メートル程で傾斜がきつくなり、そこから下流へ歩けなくなった。その下流に水面が大きく乱れる場所が見える。水路のように単調な流れの中に有って、その水面の動きは川底が急に深くなっていることを告げていた。ビートを一目見たときから、その場所しかないと思っていたが、その淀みが今、私の目の前に広がっている。私は崩れそうになる足下をならしながら、下流に向けてフライを投げた。

下流でスウィングするラインの速度が急に遅くなった。釣り始めてからここ迄下ってくる間、落下したラインは瞬く間に下流に伸びきってしまっていた。それが急に遅くなったのだから、逆流する流れができている証拠だ。恐らく川底がすり鉢のように深く掘られているのだろう。私は慎重にフライを投げ続けた。

淀みにフライが入るようになってから5回ほど投げただろうか。もう間もなくラインが淀みを抜けてしまいそうだ。下流は再び単調な流れに戻ってしまうし、第一、この水位ではこれ以上釣り下ることができない。
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岸沿いにできた澄んだ流れに魚は居るだろうか。

私は水際からほんの3メートルばかり立ち込んでいた。直ぐ脇の木の根本にマリアンが座っていた。川が余りに酷く危険なため、彼女はロッドを持ち出さないでいた。
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私と上流に一人。この日ガウラで釣りをした人は他にいないだろう。

私はロッドの先を岸に居るマリアンの方に向け、ラインを岸際までターンさせた。その時、何かがラインに触れたような感触が伝わってきた。フライに小さな木の葉が一枚刺さった程の抵抗だった。

「今、何かが触った」私は彼女に告げた。釣り始めてからここに下って来るまでの僅かな時間に、数回も木の枝を釣っていたから、私はフライにまたその欠片が掛かってしまったのかと思った。

「また何かが触った。未だ続いている」私は自分と彼女の丁度中間に伸びているロッドの先を眺めながら、そうつぶやいていた。
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下流にできた淀みにフライを流し込む。

 3度目、今度はロッドの先が微かに動くのが見えた。

 「何だろう。まさか魚ではないだろう」 

 僅かであったが、ロッドの先が再び動いた。

 「まさか、本当に魚?」

 「、、、、、、、、、、間違いない、魚だ」

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何かがやって来た。しかし岩のように動こうとしない。

寒気

一気に緊張が走った。私は腰を沈めながらロッドをそのまま上流に向け、抜けないでくれと祈りながら、静かに、そしてゆっくりとラインを張った。複雑な流れに揉まれてラインは大きく弛んでいたのだろう。まるでゴム紐を引っ張るような手応えで重くなり、やがて完全に止まった。私はそれでも半信半疑のまま、更に力を込めた。ロッドが手元までしなった時、凄い力で引き戻された。

「来たぞー」私は思わず叫んだ。

ラインはそのまま動かなくなってしまったが、一度引き戻された時の感触が私の全身にはっきり残っていた。それは有無を言わせぬ力だった。それっきり全く動かない。私はもう一度ロッドが大きく曲がるまでラインを張った。

何の変化も無く、そのまま数秒が経過した。張りつめたラインの先には15cmのスティングレー・ロングテールが居る。そのフックが刺さっているのは岩でも流木でもない。それを証明する引きをたった一度味わっただけで、私は緊張の余り寒気がしてきた。ただの鮭ではない。それだけは確かだった。
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岸に上がって思い切り引いたとき、それは動き出した。

濁流で荒れ狂った川の景色とは裏腹に、雨上がりの森からツグミのさえずりが聞こえてきた。のどかなその歌声と足下に寄せる水音しか、私の耳には聞こえなかった。嵐の前の静けさのように、妙に静かだった。

私はゆっくり岸に上がり、ロッドの向きを変えると改めてラインを強く張った。濁流の中に、弓の弦のように張りつめたラインが突き刺さっている。心配なのは、目の前をひっきりなしに、大小さまざまな木の枝が流れていることだった。運悪く大きな枝がラインに掛かったら、それでお終いだ。それなのに私は殆ど動けない。だから魚に動いて貰わないと困る。

戦闘開始

私はそれまで寝かせていたロッドを高く差し上げ、リールを押さえると、グリップが軋むまで思い切り曲げた。私は力を入れているのに、自分が何をしているのか良く判らず、まるで夢を見ているようなおかしな気分だった。

目にも鮮やかな新緑の森、のどかなツグミの歌声、恐ろしい洪水の川、そこに突き刺さっているライン。何ともちぐはぐな取り合わせだ。確かに魚がフライをくわえた筈だったが、少し前に見た、あの狐にたぶらかされているような気分だった。

突然、私は夢から一気に現実の世界に戻った。魚の気を感じてリールから手を離すのと同時に、鋭いリールの音が目覚まし時計のように響き渡った。遂にゴングが鳴った。戦闘開始だ。
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渾身の力を込めて、ファイトが始まった。

20mほど一気に走ると、魚はそこで止まった。しかし今度は大きく頭を振ったり、向きを変えたり動き続けている。魚が止まっている時は動け、走れと思っていたのに、本当に動き出したら震えるほど緊張が高まった。

魚は岸から凡そ30m程の所にいる。その先には見渡す限り途方もない濁流が流れている。流心まで走らなくても、あと30mも走りさえすれば魚はあの流れに乗ってしまう。想像しただけで喉がからからになった。私は水際からもう一度身を乗り出して、川岸の様子を窺った。しかし何度確かめても同じだった。魚を追って岸沿いを下るのは全く不可能だ。

何が起きても、この場所でファイとするしかない。そう決心したとき、魚が急に動いた。同時に灰色の流木のようなものが水面を割った。魚が浮上した。そして次の瞬間、銀色の魚が大きく宙に舞った。

「大きい、12kg以上ある」

私は傍らのマリアンに叫んだ。同時に彼女はビデオカメラを取りに車に走った。

-- つづく --
2002年12月22日  沢田 賢一郎