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洪水と日照り  --第7話--

午後

昼食を終えて再び釣り場に戻ってみると、水位は更に下がっていた。最も高かった時から見ると、1.5M近く引いたことになる。それでも未だ洪水には変わりない。しかし岸がだいぶ露出したおかげで、川底の様子が広範囲に判るようになってきた。
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水が減ったおかげで、上流から見ると淀みが鮮明に見える。後にサワダプールと呼ばれるようになった。

私はいつもと同じように境目の石から釣り下り、淀みの中を丁寧に釣った。今度は何もなかった。下流を見渡すと、岸沿いに何とか歩けそうだった。バンクが急で直ぐ背後に高い木が密生しているため、歩くのもフライを投げるのも至難の業だろうが、私はそれを承知の上で恐る恐る下った。

腰まで浸かっているというのに、水際から2mしか離れていない。流れは相変わらず重く、一箇所に留まっていると足下の小石がみるみる流されていく。なんとも歩き辛い川だ。右岸から投げるためロッドを身体の左側で振るようになる。それがバランスを取るのを更に難しくしていた。

30mほど下流の川岸に一本の松の木が生えていた。その松の木が私の直ぐ横に来たとき、何かがフライに触った。たった一度だけ。それも一瞬の出来事だったから、私は確信を持つには至らなかったが、魚かも知れないと思った。念のため同じ場所にもう一度フライを投げてみたが、何もなかった。そこから更に30m近く下った所で私は釣りを続けるのを止め、バンクをよじ登った。岸の傾斜がきつくなり、これ以上釣り下るのが危険に思えたからだ。

月夜

釣りができる範囲が短いため、私とマリアンで交互に同じ場所を釣ったが、ものの30分もしない内に終わってしまう。さすがに3回も釣ると飽きてくる。飽きると焚き火をしたり、上のビートに居るマスラ氏の所で釣り談義に花を咲かせたりした。不思議なもので、上流から見ると、今までさんざん釣っていた流れが良く見えてくる。釣り飽きたから油を売りにやって来たというのに、離れてみると、直ぐに戻りたくなる。好きなものは何でも同じだ。

魚はあれっきり姿を見せない。どんなに釣れなくても、5分先は判らないのがサーモン・フィッシングだが、如何せん場所が狭いと集中力が続かなくなる。我々は少し時間を空けてから出直すことにした。

夕食を済ましてから、我々はもう一度川に向かった。時刻は9時を回っていたが、釣りをするのに何の不自由もないくらい明るかった。と言うより、曇っていたおかげで明るすぎず、丁度良い明るさだったと言うべきだろう。
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流れの様子は厭になるくらい単調だが、岸よりの川底は起伏に富んでいた。

川に着くと誰も居なかった。上のビートの人達も食事に戻っているのだろう。我々は2回ずつ丁寧に釣ったが、何事も起こらなかった。

ふと、周囲が明るくなったような気がして空を見上げると、雪山を背景に満月が顔を出していた。

満月の夜は釣れない。

たいていの夜釣りで、これは常識となっている。サーモンも同じだろうか。ノルウェーに来てから、満月の夜に釣りをするのは今日が初めてだ。私はその言い伝えに興味があったが、この洪水と少ない魚の数では判断しようがない。

本当は良いか悪いか判らないのに、習慣とは恐ろしいもので、魚が釣れないのはあの満月のせいだと思いたくなってくる。確かめたければ明け方、月が山に消えるまで釣り続ければ良いのだが、どうもそんな気になれない。さすがにこの数日間の疲れが応えていたから、少し休みたかったのではないかと思う。引き上げるのに、満月は良い口実だった。
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凶か吉か、雲間から突然満月が姿を現した。

気懸かり

目を覚ますと未だ5時だった。もう少し眠ろうと思って目を閉じると、数時間前に見た川の景色が瞼に浮かんでくる。魚の気配がないから引き上げてきたのに、新しい魚が入って来ているかも知れないと思うと、気になって寝付けない。30分ほどうとうとしていたが、私は遂に我慢できずに起きだし、一人で川に向かった。

朝の川は人影もなく静まり返っていた。水位はまた50cm近く下がっていて、後にサワダプールと呼ばれるようになった淀みも、その先の浅場も、流れ方にはっきりした違いができていた。私はそれを確かめると、身支度を済ませ、その時から持ち運ぶようになったランディング・ネットを下げて川岸に立った。

ネットを持ちながら釣ることはできないから、何処かに置いておかねばならない。私は淀みの直ぐ上にネットを立て掛けると、いつものように境界の石の前に立ち、目の前の流れに見入った。

手前側を流れるルンダソクナの水は透明度も上がり、流れの幅も更に広くなった。私はそれを見て、スティングレーに代えて、同じくこの時初めて巻いたローズマリーのロングテールをリーダーの先に結んだ。

河原がだいぶ露出したせいで、足下の地形もかなり変化してきた。増水時は全く単調な流れだったが、境界の石から下流にすり鉢のような窪みが2箇所と、尾根のように張り出した浅場が1箇所あるのが流れの様子から見て取れた。私はそのすり鉢のような深みにはまらないよう、慎重に釣り下っていった。
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水位が目まぐるしく変化すると、河原に木の枝が何本も立つようになる。

淀みの中には何も居なかった。柳の下にそうそうドジョウは居ないものだ。私は更に釣り下ることにしたが、岸に立て掛けたネットを見て考えた。

 ここに来るまでに魚が掛かれば、ネットの脇でファイトできた。しかしここから下ってしまったらネットは使えない。下流は岸が幾らも露出しておらず、しかも魚を引きずり上げるには傾斜がきつ過ぎる。手助けしてくれる人が居るならまだしも、いま魚が掛かったら、ネットなしでどうやってランディングできるだろう。

私は一度水から上がって、ネットをずっと下流に運んでおくことを考えたが、それも面倒に思えた。魚が掛かったらその時はその時、まあ何とかなるだろう。今までネットを持つこともしなかったのだ。私は構わず釣り下った。

昨日より大分楽になったとは言え、足を踏み出す毎に足下の砂利が崩れる。まったく歩きづらい場所だ。そのうえバックスペースが殆どないから、ラインをかなり下流に向けて投げなければならない。私は30mばかり投げたラインを直ぐに張って、速い流れの中にフライを泳がせ続けた。

松の木の横まで下りてきたとき、私は昨日ここで当たりのような感触があったことを思いだした。あれは一体何だったのだろう。魚のような気がしたのだが。

その時、突然ロッドを引たくるような当たりがやって来た。同時に30m程のラインが鋭いリールの回転音と共に飛び出していった。

やはり居た。

まさか昨日と同じ魚とは思えないが、ここは魚が止まる場所だったのだ。サーモンは更に10mばかりラインを引き出すと、流れの中で動かなくなった。私はサーモンが流心の濁流に入らないことを信じていた。しかしどうやってランディングしようか考えた。この場所でネットなしにランディングするのは不可能だ。何処かに傾斜の緩いバンクがあるかも知れない。運を天に任せて下れるだけ下ってみるか。

-- つづく --
2003年01月12日  沢田 賢一郎