暁の朱点
梅雨開けから3週間近く過ぎた。夕方になってもセッジはほとんど飛ばず、ライズはもう2週間近く無いと言ってよかった。いよいよイブニングライズの釣りに見切りを付けるがやってきた。私は7月の最後の週に高原川へ行き、そこでも魚の活動時間が夕方から夜明けに移ったことを確認した。(
第77話参照)
8月初め、いつもなら釣り場に着いてから支度をするのに、私は翌日の釣りに備えて準備を進めていた。
フライを結んだリーダーを4セット作り、それをカーストワレットに仕舞った。こうしておけば釣り場に着いてリーダーをセットするだけで釣り始めることができるし、トラブルが起きても直ぐに予備のセットに交換できる。使用したリーダーは7フィート半の1X。4本のうち2本はリードフライだけ、残りの2本にはドロッパーを付けた。
イブニングライズの釣りは明るい時に始まり、次第に暗くなる。暗くなってもその場に居る限り記憶ははっきりしているし、勘も効く。ところが夜明けはその逆となる。目が利かず勘も働かないうちに始まってしまい、すっかり明るくなって慣れた時に終わっている。モーニングライズの釣りはイブニングライズのそれに比べ、必然的に短期決戦となり、例え小さな失敗でもその日の釣りを台無しにしてしまう恐れがあった。私はそれを避けるためのロッドとして、10フィートのブラックレンジャー選んだ。10フィートという長さがフライのコントロールを容易にするのと、トラブルを回避するのに都合良いからであった。
私は夜中に目を覚ますと、軽い食事を済ませて出発した。川茂に着いたのは未だ夜明け前だった。私は直ぐに身支度を調え、ロッドを繋ぎ、リーダーを結び終えた。川に降りれば直ぐにでも釣りができるようにしておいて、私は車の中に戻ると全ての明かりを消し、目を慣らすよう努めた。初めは何処を見ても真っ暗だったのが、次第に山や木の輪郭が見えるようになり、空を見上げるとどちらが東だか直ぐに解るようになった。そう思う間もなく外が明るくなってきた。もうライトなしで川に降りられる。私は静かに車を離れ、河原に向かって斜面を下った。

朝モヤの残る川茂。モヤが晴れれば夢も覚める。
河原はうっすらと朝モヤに包まれ、山中が蚊の羽音に共鳴していた。それに夜鷹の鳴き声と水の音が混じって、桂川らしくない、まるで人里離れた深山の雰囲気を醸し出していた。私は静かに降り口の上にある瀬の脇に立った。そこは何の変哲もない瀬で、春先は釣れるがシーズン盛期には魚の気配が無くなってしまう平凡な流れだった。
しかし私はこの瀬からスタートすることを出掛ける前に決めていた。それは朝のポイントとイブニングのポイントが完全に異なるからであった。イブニングは瀬の終わりから始まって刻々と淵の開きに移動する。最後は流れ出しで終わる。それに対し、早朝は瀬の真ん中から淵の流れ込みまでだ。淵の開きに移動することはないから、狙うポイントは朝晩でかなり異なる。
別世界
私は岸辺に立つと下流の瀬を見透かしながらラインを引き出した。道具を見るために少しでも光を使うと、これまで時間をかけて眼を慣らしたのがふいになってしまう。半ば手探りで最後の点検を済ませた。間もなく夜が明ける。否、山の上はもう明けているから、谷底に光が届くと言った方が正確だろう。その時、私の顔に何かがぶつかった。払おうと上げた手にも何かがぶつかった。セッジだった。よく見えないがかなりの数が飛び回っている。思った通り桂川もセッジの活動時間が夕方から朝に変わっていた。

急成長したアマゴ。体重が1.15kgもあった。
更に明るさが増し目の前の瀬がよく見えるようになった時、直ぐ下の流心で飛沫が上がった。
「よし、ライズが始まった」
それは派手で警戒心の欠片もない激しいライズだった。そんなライズは解禁以来、久しく見ることがなかった。私は左手に持っていた4番のピーコッククィーンを水に浸けると、更に2mほどラインを伸ばし下流に流した。そしてラインが真っ直ぐ流れきった頃合いを見計らってピックアップすると、そのままライズのあった場所の直ぐ横に叩き込んだ。僅か2、3秒でラインがビンと張った。合わせる間もなくリールの鋭い金属音が谷間に響き渡り、同時に白っぽいものが瀬を飛び越すような勢いで宙に舞った。ロッドを起こした時、その魚は瀬の中を右に左に走り回っていた。リーダーは1Xだ。この魚に切られることはない。私は魚に瀬を下られないよう、かなり強引に止めた。ブラックレンジャーがこれまで見たこともないほど大きくしなっていた。私は5mほど下流の滑らかな岸辺に魚を誘導し、河原に引き上げた。50cm近い綺麗なニジマスだったが、私はその魚の姿を愛でる間もなく大急ぎで針を外し、流れに戻した。

普通の渓流に住めば、同じ年齢でも体重は5分の1にも満たない。
「急がなければ」
本命のポイントは30m以上下流、緩いカーブを曲がった所にあった。瀬はそこで絞れ、更にその下流にある淵に流れ込んでいた。浅くて変化の乏しい瀬に魚が居たくらいだから、あの流れ込みに居ない訳がない。私がその流れ込みを見下ろせる所まで降りてきた時、周囲は更に明るくなり、無数のセッジの飛ぶ姿が見えた。高原川にも沢山いたが、さすが桂川はその数倍いる。その時、私の直ぐ脇で派手な水飛沫が上がった。
「これもなかなかのサイズではないか」
私はそのライズを釣るため、急いで10m近く上流に戻った。そして下流を振り返ったとき、本命の流れ込みと思しき付近で上がった水飛沫が目に入った。
「よし、2匹連続で釣るぞ」
私はぞくぞくしながらそう叫んだが、下流がよく見えたのは朝モヤが晴れてきたからだと気づいた。
「だめだ時間が足りない。どちらか一方にしないと」
私は本命を選んだ。せっかく後戻りしたが、急いで下流へ向かった。上のライズは小物ではない。しかしライズの起こった場所から想像するに、最初の魚とほぼ同じ程度のサイズである可能性が高い。
私はカーブに辿り着くと改めて流れの様子を観察した。ライズがあったのは流れ込みの中央、流れが最も絞れた場所に違いない。ポイントの規模と今の飛沫の上がり具合から想像するに、かなりの大物であることは疑いようもない。

狭い渓流に住むアマゴと違って、桂川のアマゴは朱点が微かにしか見えないものが多かった。
私はロッドを小脇に抱えリーダーを手繰った。既に一度魚を捕らえたピーコッククィーンがリーダーの先にあった。私は其れを左手で摘むと、右手でリーダーをしごいた。こうすると目に見えない小さな傷でも確実に発見できる。その最中にまたもライズの音が響いた。魚はやる気満々だ。プレゼンテーションの失敗は絶対に許されない。私はライズのあった場所までと同じ長さのラインが伸びていることを確認するため、魚の居ない手前の岸に沿ってフライを投げた。距離はぴったりだ。
夢幻
ダウン&アクロスでウェットフライを投げる時、フォルスキャストをせず、ウェットフライキャストで投げた方がバックキャストが高くなり、リーダーを伸ばし切ってフライを水面に叩き込める。その結果、フライの落下と同時に魚を釣ることができる。私はライズのあった方角にロッドを向けると静かにラインをピックアップし、そのまま向こう側へ少し逸れるように投げ下ろした。ラインが水面で一直線に伸びた。フライは落下と同時に泳いでいる。
「さあ来るぞ」
と思うより一瞬早くリールが鳴り、ラインが張った。ドスン、ドスンと間隔の広い振動が伝わるたびにロッドが大きく揺れた。魚はそのまま水面近くまで浮上すると突然下流に走り、プールの中央で動かなくなった。
走るでなく、暴れるでなく、その魚はひたすら川底に張り付いて抵抗を続けた。未だ勝負は着いていなかったが、私はフッキングしたら最後、早々と片を付けたかった。この魚を直ぐに取り込むことができれば、先ほどのライズに戻れる。今なら間に合うが、ぐずぐずしているとチャンスが終わってしまう。私は少しばかり強引に魚を寄せに掛かった。ブラックレンジャーが再び満月のようにしなり、魚を一旦川底から引き離した。しかしその直後、魚は引き揚げる前より更に深みへ戻ってしまった。
「これは普通の魚ではない」
私は強引に引き戻されたおかげで、次の魚のことを考えるのを止めた。この魚を確実に取り込むのが先だ。それから数分間、引き寄せては戻られ、また引き寄せては戻られることを繰り返したが、やがて大人しくなって浮上してきた。足下まで寄せた時、私は4番のピーコッククィーンが見えないのに気が付いた。フライはすっかり飲み込まれていた。随分と背中の盛り上がったヤマメだと思ったら、側線付近に小さな赤い斑点があった。模様は不鮮明だがアマゴのようであった。
ふと我に返ると朝モヤは消え、何もかも普通の朝に戻っていた。私は釣り残したライズを思いだし上流を振り返った。あれほど飛んでいたセッジが唯の一匹も見えない。生き物の精気に溢れていた瀬も、今は惰性のままに流れている。
「終わった」
私は斜面を上がると後ろを振り返った。あの谷底で私は夢を見ていたのだろうか。帰路につくため車に乗った時、私の横をその日一番乗りの釣り人が通り抜けていった。
-- つづく --
2007年07月10日 沢田 賢一郎