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桂川編  --第104話--

雷雨

7月の初め、その日は梅雨の中休みで朝から陽が照っていた。前日とうって変わった蒸し暑さとなり、イブニングライズを釣るには絶好の日和に思えた。私はその日の夕方、川茂に出掛ける予定でいた。ところが昼過ぎ、真っ黒な雲が俄に湧きだし、外は陽が落ちたように暗くなった。夕立がやって来ると思う間もなく雷鳴が轟き渡り、同時に大粒の雨が地表を射るように落ちてきた。

私は激しい雨を見ながら川の様子を想像していた。この季節、大月から富士吉田にかけて雷雨が多い。今日の天気から考えるに、恐らく広範囲で雷雨があると思えた。もし酷い雷雨に見舞われたら、今日のイブニングライズは諦めねばならない。適度な雨だったらどうだろうか。増水は歓迎だが、イブニングライズはやはり期待できない。それなら夕方を待たずに出掛けた方が良いかも知れない。駄目で元々だ。
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3種類のフックにスタイルを換えてドレッシングしたプロフェッサー。万能フライだが、濁った水の中でも際だった働きをした。

出発する用意は済ませてあったので、私は雨の中を桂川へ向かった。途中、相模湖の付近まで来ると道路は濡れておらず陽が射していた。しかし大月の手前で激しい雷雨に突入した。ワイパーを高速で動かしても、まるで水中を走っているように前がよく見えなかった。それでも高速道を降りた頃には雨も小降りになり、川岸に着いた時にはすっかり止んでいた。

土手の上から見た桂川は茶色く濁っていた。しかし増水は思ったほどでなく、釣りをするのに問題はなさそうだった。私はそれでも念のため、ゆっくり支度を始めた。支度しながら何度も川の様子を窺った。雷雨による急増水は雨が上がってから起こることが多い。川の水が濁っていることから、既に増水していることは解っていたが、これがピークなのか、更に増水するのか様子を見る必要があった。私は支度を終えてからもう一度注意深く観察したが、水位が上がっている様子はなく、濁りがきつくなっているようにも見えなかった。私は安心して河原に降りた。
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ヨットの帆のように切れ上がったニジマスの尾ビレ。このヒレを水面から突き出し、藻の中で餌を採っていた。

縦ターン

ロッドは9フィート半のアバディーン、7番ラインの先に7フィート半の2Xリーダーを結び、リードフライはジョックの4番、ドロッパーにも同じくプロフェッサーの4番を結んだ。私は落ち込みか、さもなければ少しでも流れが変化している場所を選び、その二つのフライを思い切り叩き込んだ。同時にラインを緩めて一旦フライを沈め、頃合いを見てラインを張ってフライを浮上させた。この縦のターンはこうした濁りの中で大きな威力を発揮した。沈んだフライが浮上する時に当たることが多いが、水面まで追ってフライを捕らえる魚を見ることも珍しくなかった。水が強く濁った時、フライは概して大きい方が良かったので、私は桂川や忍野では4番を使うのが常だった。

セッジの多い川を釣る時、昼間、たいした増水なしに水が濁るのはウェットフライにとって絶好のチャンスだ。急に水が濁ると水中が暗くなる。セッジのハッチは明るさに支配されるため、彼らは夕方と勘違いして活動を開始する。つまりイブニングライズと同じ状況が生まれる。しかし暗いのは水中だけだから、既に羽化した成虫が水面を這うことはない。勿論ライズも無いが、水中では魚たちが一足早い夕食を摂っている。私は忍野で何回もそうした状況に遭遇し、その都度たのしい思いをしてきた。ただ昼間から魚が活発に餌を採るのに接すると、今日のイブニングはさぞかし凄いだろうと当てにして待つが、殆ど期待外れに終わる。夕方になって水の状況が好転しても、その日にハッチする予定のセッジはもう残っていない。

私はその日、濁り水の中で数匹のニジマスを釣り上げることができた。残念ながら写真撮影したくなるような魚は居なかった。私が釣っている間、水位は大分下がったけれど、濁りは幾分改善されただけに留まった。恐らく畑か土手が崩れて泥水が流入しているためだろう。私は安全のため渡渉せずに釣れる範囲を巡ったため、その中の全てのポイントをほぼ2回ずつ釣りきってしまった。夕方は期待できそうもないので、他の場所へ移ることを考えていた。
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突起

その時、直ぐ下流でおかしな波紋が生まれた。その波紋は岸から1m足らずのところで起こった。水中で起こったから魚が起こしたものに違いないが、そこの水深はどう見積もっても20cm未満だ。水が濁っているから波しか見えなかったが、いつものように澄んでいたら川底どころかその魚も丸見えの筈だ。もしかすると魚でなくネズミかイタチかも知れない。

私はその正体を確かめたくて、身動き一つせずその付近を見つめていた。しかし1分ほど経ったが何も起こらなかった。あれは魚やネズミでなく、流木か何かが起こした波だったのかも知れない。水が濁っていたから解らなかっただけだろう。私は場所替えするために歩き出した。その時、少し離れた場所でまた同じ波紋が広がった。私はそのまま波紋に向かって足早に近づいた。今度の波紋も岸から1m以内だ。私は今度こそ絶対に正体を確かめるつもりで水際に立った。
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尾ビレの尖り具合で、その魚の走る速度が判る。

数分が過ぎた。突然5mほど上流の岸際で水面が割れた。私は直ぐに近寄り、至近距離から注視した。何かが水面下で動いている。何だろう。突然、水面を割って尖ったものが突き出た。ほんの一瞬だったが、どう見ても魚の尻尾だった。魚が浅い岸際で何かを食べている。

相手が魚と解ったら場所替えどころではない。私はフライをフックキーパーから外すと、尾びれが見えたところに投げてみた。水深はその場所も20cmないだろう。流れもないと言ってよい。私は当てずっぽうでその付近の水面にフライを這わせてみたが、何事も起こらなかった。すると今度は直ぐ下流側で水面が割れた。私は待ってましたとばかりにフライを投げ、水面を這わせた。ほぼ同時にフライの直ぐ後ろでも波紋が生まれたが、フライに対して反応した訳ではなかった。私はフライを投げ直し、今度は少し間を置いてから引いてみた。掛かったと思ったのも束の間、フライは水中の草を釣っていた。増水して岸際の草むらが水没していたものだから、フライをほんの少し沈めただけで絡んでしまった。私はロッドを数回煽ってみたが、フライは外れそうにない。仕方なく水に入って外すと、それ以降、波紋は消えてしまった。
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岸沿いに生えた藻の中に、夥しい量の餌があった。

ヒレが見えたから間違いなく魚だ。それも小型ではない。そして明らかに何かを食べに水際に来ていた。水が濁った時、たいていの魚は水中を流れてくる餌を食べるのに、あの魚は一体何を食べていたのだろう。岸寄りに避難した小魚か、ヒルのようなものだろうか。そうした跳ねと云うか波紋は、これまでも何回か目にすることがあった。但し、何時も単発だったから、それを待ち構えるわけにいかなかった。もし再び出くわすことがあったら、その時は是非とも正体を見届けるつもりでいた。

-- つづく --
2007年03月08日  沢田 賢一郎