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桂川編  --第94話--

吹雪

4月の初め、風花の舞う中でヤマメが盛んにライズするのを知ったことから、私は翌1973年、思いきって解禁日から桂川を目指した。その頃、解禁日は昼間の早い時間から忍野に出掛け、禁漁期間中に川がどう変わったか、良くなったポイントとそうでないポイントはどこか。そしてそのシーズンの成果を占うため流域を隅々まで観察するのが習わしだった。もし解禁日の桂川が期待外れでも、早くから忍野に向かうので時間を持て余すことはない。私は朝の9時頃に明見の橋に着いた。

はっきりとした統計を取ったわけではないが、そのころ3月1日が良い天気に恵まれることは少なかった。2月の末日から天気が崩れ、解禁日が大荒れの天気になることがしばらく続いたことを覚えている。その日は嵐ではなかったが、朝から風が強く吹いていた。幸い桂川の近くまで来た頃に風は弱まったが、黒い雲が空を覆っていた。私は橋のたもとに車を止め、土手の上から川を眺め渡した。モノクロ写真を見るような色のない世界がずっと下流まで続いていて、解禁日だというのに人影もなかった。

前の年、4月の初めに来たときも同じような景色だった。魚が出てくると思えないような状況であったが、予想に反して多くのヤマメが飛び出した。今年は更に一ヶ月早いが、きっと反応があるはずだ。そう信じてやって来たが、車を降りるとさすがに冷え冷えとしてきて、少しばかり不安になった。こんな時は早々と釣り始めるに限る。私は渓流用の6フィートのロッドを繋いで4番のラインを通すと、1号のリーダーを一尋結び、その先に小さなドライフライを結んだ。
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1976年、解禁日の桂川支流。雪の降る日は昼間に釣れることが多かった。

そのフライは前年の秋に初めて巻き上げたもので、ランズパティキュラと言う名の可愛らしいフライだった。ハックルケイプがとても珍しかった時代のことだから、ドライフライを14番という小さなサイズに巻くのは大変だった。しかし初めて使ったとき、その威力に驚嘆し、すっかりスピナーというスタイルのフライの虜になっていた。このフライを桂川で使いたい。前の年に空合わせを繰り返した悔しさが忘れられず、私はこの日が来るのを首を長くして待っていた。

一つだけ不安なことがあった。それはランズパティキュラのパターンリストに記されているRIR、すなわちロードアイランドレッドのハックルストークでボディを巻くという解説だった。この時に使用したフライはW.J.Lunn の指示通りに巻いていたのだが、翌年渡英してそれを確認するまで少しばかり不安だったことを覚えている。(第11話参照)

私は身支度を整えると、と言ってもこの地域の桂川もこの後の忍野にしても、ウェダーでなくブーツを履いてベストを羽織るだけだから至って簡単であったが、直ぐにでもフライを投げたい衝動を抑え川の様子を観察した。土手の上を下流に向かって100mほど歩いてみたが、水が少ないように思えたこと以外、特に変わった様子はなかった。

私は去年と同じ堰堤の下から釣り始めるため、車に向かって歩き始めた。風上が霞んでいると思ったら雪が舞ってきた。いつものように富士山の方から降り注いでくる。しかしその日は風花でなく、まともな雪だった。車に戻ったとき富士山はすっかり隠れ、辺りは夕方のように暗くなっていた。
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4月初めの奥多摩。陽当たりの良い沢は昼近くになるとヤマメが顔を出した。

3月1日、午前10時、富士山の麓、吹雪。誰がどう考えても絶望的な条件だ。もし去年の経験が無かったら落胆していたかもしれない。しかし私には去年の憂さ晴らしをするのに、自然がわざわざ同じ舞台を用意してくれたように思えた。私は堰堤の脇に立つと、直ぐ下の流れにフライを落とした。3mの護岸の上から真下を釣るものだから、投げると言うより落とすと言った方が自然だ。小さなランズパティキュラは黒い水面に舞い降り、手前の岸に沿って流れ始めた。

2投目、今度は流心に出来た流れの筋にフライを浮かべてみた。流れ出して直ぐにパチッと水面が弾け、フライが消えた。すかさず持ち上げたロッドに小気味よい振動が伝わってきた。

「よし、やったぞ」

20cmを少し超えたヤマメが水面直下をあちこち走り回っている。右に左に数回突進した後、体を大きくくねらせながら上がってきた。

「やはり出た。解禁から釣れるのだ」
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春になったようでも、沢の魚はまだサビが残っている。

オリーブと微弱なドラッグ

最初の一匹を釣った場所から10mほど下った場所で二匹目が、そして橋の下流で三匹目がフライに飛び出し、全てしっかりとフライをくわえたまま上がってきた。私は降りしきる雪も何のその、正にしてやったりの気分で、その先を釣るのが楽しみだった。

橋から凡そ50mほど下った所にその付近で最も魅力的なプールがあった。この場所に来る度、魚が必ず顔を出すポイントだった。そのプールが近くに見えた頃、雪が一段と激しく降ってきた。上流の橋が霞んで見える。しかし魚が釣れていたせいか、それとも風が弱まったせいか、私には釣り始めた頃より暖かくなったような気がしていた。

私はフライを点検すると、そのプールを見渡せる場所に立って慎重に投げた。プールの流れ込みは緩やかな瀬になっていた。ランズパティキュラはその頭に着水し、静かに流れ始めた。フライの下で何かが動いた。一匹の魚が上流を向いたまま浮上してきた。ヤマメだ。脇腹のパーマークがはっきり見えたとき、急に上を向いてフライに突進した。真上から見ているものだから、フライの直ぐ向こうに大きく開いた口が見えた。その直後、穏やかな波紋と共にフライが消えた。ラインを張るのと同時にヤマメは下流に下った。
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1979年4月。栃木県の那珂川。天気の良い日、浅くて広い流れは水温を上昇させ、ヤマメがライズを始める。

ヤマメは大きくなかったが、未だ釣れるかもしれない流れ込みの周辺で、最初の魚に暴れて欲しくなかったから、私も魚に付いて下流に移動することにした。

私は引き上げた ヤマメからフライを外すと、もう一匹出て来ることを期待して流れ込みに戻った。最初の魚が浮上した光景が瞼に浮かんできたかのように、2匹目が浮上してフライをくわえた。そのヤマメは流れ込みに留まろうとしたので、私は自分から先に下流に動き、魚をそこから引き離した。雪が降りしきる誰も居ない川で、私は一人楽しく笑っていた。こんなにうまくいくなんて想像だにしなかった。

二度あることは三度あると言うくらいだから、まだ出てくるかも知れない。私はさすがにべとついてきたフライを新しいものに変え、上流に戻った。そして流れ込みに目をやったとき、浮上するヤマメを見つけた。未だフライを投げていないと言うのに、そのヤマメはゆっくり水面に浮上し、フライに出たときと同じような仕草で何かを食べた。水面を注視した私の目に何か小さなものが映った。初めクリーム色をした小さな固まりに見えたが、流れて来たのは羽化したオリーブだった。羽を震わせて微かに動いているのが見えた時、再び浮上してきたヤマメがそれを飲み込んだ。
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1975年、ランズパティキュラはヤマメ釣りに欠かせないフライとなっていた。

気が付くと流心の向こう側にも流れている。そしてあちこちで小さなライズが始まった。水滴が一粒跳ねる程度の静かなライズだが、私はほとんど真上から見ているものだから一部始終が良く判った。これは凄いことになってきた。川は独り占めだし、正に千載一遇の好機ではないか。

私は胸が躍るのを必死で押さえるようにして、フライを目の前の水面に浮かべた。直ぐにヤマメが浮上し、フライに向かった。

「ハイもう一匹」

ところがロッドは空を切った。しまった。余り楽に釣れていたので合わせが雑になってしまった。
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その時点で私はそう思っていた。それが合わせのせいでないと気が付くのに数分で充分だった。それから立て続けに何回も空合わせをした後で、私はやっと落ち着いてヤマメを見た。浮上したヤマメはフライの手前ほんの数センチで身を翻していたのだ。これでは何回合わせても掛かるわけがない。本物のオリーブがハッチする前、少しくらい流れ方の悪いフライでもヤマメは疑うことをせずに捕らえた。ところが本物が大量に流下し始めた途端、本物と違う流れ方をするフライを避けてしまったのだ。

この出来事はそれから何年もの間、私の頭の中に鮮明な記憶として留まった。本物が流れているときでもヤマメが捕らえるようにフライを流したい。その願いを完全に叶えることができたのは、スーパードライリーダーが完成した1994年。この日から実に22年後のことだった。

-- つづく --
2006年05月30日  沢田 賢一郎