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スティールヘッド編  --第137話--

冷気

長旅と初日からの強行軍で疲れきっていたのに、時差ボケのせいで2日目の朝は随分と早く目が覚めてしまった。窓を開けるとオレンジ色の空に、未だかすかに星が見えた。気が付くと異様に寒い。寝不足のせいかと思っていたが、支度を済ませて外に出てみると、昨日とはまるで違って辺り一面に冷気が満ちていた。今日はかなり冷えそうだ。10月の末といえば、日本でも冷え込むことがある。ここはカナダの内陸だから北海道より寒くても不思議ではない。
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グレイブヤードの駐車場。餌を売る車が何時でも待機している。

我々にはその程度の認識しか無かったが、河原に着いて釣り支度をする間に手がかじかんで来た。それでも寒いのは寝不足と疲労のせいだと思っていたが、水に漬けたラインが瞬く間に凍ったのには驚いた。昨日の暖かさからは想像もできない。

朝一番は、昨日の夕方に入ったホテルランの右岸側、線路が直ぐ後ろを通っているためレールウェイ・ランと呼ばれているプールから始めた。ここは5年前に初めてトンプソンを訪れた時、幸運にもスティールヘッドを釣り上げた場所だ。前回と比べて水位が下がったため、川は水際から急深となっており、変化に乏しい水路のようであった。それでも瀬の終わる辺りは遠目に見ても魅力的だった。
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レイルウェイ・ランの開き。ルアーや餌釣りにも人気のポイント。

我々は一投ごとにその地域に近づいて行った。そろそろ流れが変わる頃になって、下流の岩陰に一人の釣り人が突然現れた。岸際に大きな岩が点在しているため、気が付かなかったのだろう。大きなスプーンを投げながら上流へ移動してきた。

私は彼が我々の姿に気がつけば、その時点で上流へ移動するのを止めるはずと思っていたが、それは我々の勝手な想像であった。その釣り人はルアーを投げながら同じペースで上流、つまり我々の方へ移動してきた。その距離は瞬く間に縮まり、遂に私の頭上にルアーが飛んできた。私はお互いのラインが絡むことだけは避けたいと思っていたので、続けていたキャスティングを止めていた。私は目の前に伸びたルアーのラインをパスするため、20mほど下流に下ってからフライを投げ直した。

魅力的に見えた開きの部分を一流しした後、我々はそのまま下流に向かって橋を渡り、グレイブ・ヤードと呼ばれる長い瀬に入った。墓地が有ったためそう呼ばれていたのだが、この瀬は長いだけでなく、流れの具合がとても綺麗なため人気があるのだろう。釣り人の姿がいつも絶えない瀬だった。しかし、プールを見渡す道路の駐車スペースには、エサ釣りの人達のために冷凍のエビを売る車がいつも停まっていた。そのせいか、瀬頭の好ポイントは、エサ釣りの人達に占領されていることが多く、我々もまたその人達を迂回して下流に回り込むことになった。
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ジョーンズ・ロック。対岸はエサ釣りのメッカ。

昼になったというのに、雲が低く垂れ込め、辺りは夜明けのよな明るさのままだった。風は弱かったが異様に寒い。ガイドが凍らなくなったから、夜明けよりも気温が上がったのは間違いないのだろうが、身体は冷え続けた。
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天気が変わっただけで、一日で夏から冬になる。日中でも凍えるほど寒い。

グレイブヤードにフライを流しきった後、我々は街道沿いのドライブインで遅い昼食を摂った。トンプソンでスティールヘッドを釣る人々が利用するレストランは、当時、街道沿いに3軒有った。昼食時も夕食時も、この地域で釣りをする人達が多く集まる。当然のように様々な情報の交換場所となっていた。ブルースは特にそうした情報交換に大きな関心を持っていたから、あちこちのテーブルを回って、より良い情報を収集するのに熱心だった。

食後のコーヒーを飲んでいた時、ブルースは昔の釣り仲間を見つけ、暫くの間そのテーブルに移っていたが、やがて興奮した面持ちで戻ってきた。彼が言うには、今しがた会っていた釣り人の仲間が、今日の午前中に3匹のスティールヘッドを釣ったそうだ。そこは今まで我々が釣っていたグレイブヤードの直ぐ下流で、レイクプールと呼ばれる場所だということだった。ブルースはその情報を教えてもらったのは自分だけだから、他の釣り人が知る前に急いで行こうと言い出した。

魚の少ない今年、しかも冷え込んで魚の気配を感じることができなかった日に、3匹のスティールヘッドを釣ったとは、余程良いポイントに違いない。直ぐに行こうというブルースの言葉に異議を唱える理由はなく、我々は期待に胸を膨らませてドライブインを後にした。

レイクプールは何の変哲もないトロ場で、直ぐ下流に中洲があった。変化といえば確かに変化ではあるが、単調な流れの中に有って少し変わった流れというだけのポイントであった。中洲へは浅い瀬を上流側から歩いて簡単に渡れた。中洲だから両側に瀬ができている。その右岸側の瀬に2人の釣り人がいた。我々は左岸側の流れを釣り下った。やがてその釣り人の姿がはっきりと見える位置までやってきた。午前中に3匹ものスティールヘッドをこの瀬で釣り上げたと言うのは、他に見当たらないから彼らに違いない。

私はその時のトンプソン・リバーの状況から考えて、半日で3匹ものスティールヘッドが釣れた場所に興味があった。一体どんな場所なんだろう。3匹釣れたということは、少なくとも3匹、恐らくそれ以上のスティールヘッドが定位していた場所ということになる。この年のように魚が少ない状況で、それほど多くの魚が居つく場所なら、魚にとって余程魅力的な場所に違いない。その場所の何が魚にとって魅力かが判れば、そうした魅力を備えた他の場所を探す上で大きな手掛かりとなる。

2人の釣り人が釣っていた右岸側の流れは何の変哲もない瀬で、中洲の左岸側の瀬と比べ、明らかに見劣りする規模だった。こんな瀬で半日に3匹ものスティールヘッドが釣れたなんて、とても信じられない。それに、目の前で釣っている人達からは、それほど奇跡的な釣りをしたという雰囲気というか、気配と言ったものを全く感じることができなかった。

私はその情報に納得出来ない何かを感じていたが、それとは別に、漸く辿り着いた新しいポイントを釣るといったことに気持ちが高揚し、胸の鼓動を抑えながら左岸側を釣り下った。
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スペンセス・ブリッジの直ぐ上流。下流はホテル・ランと呼ばれる。

一見良さそうに見えた左岸側も、釣ってみるとあっけなく終わってしまった。それまで釣ってきたプールと較べ、規模が小さすぎる。2人の釣り人が居る右岸側は更に規模が小さいから、もっと簡単に釣りきってしまうだろう。そこで3匹ものスティールヘッドを半日で釣ったなんて信じられなかった。


-- つづく --
2015年11月11日  沢田 賢一郎