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高原川編  --第88話--
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暗い色の岩がそびえ立っていた。一抹の不安がよぎる。

洞門

谷から戻った後も、私はあの水溜まりの出来事が気になって仕方がなかった。起こったことが全く予想外だったからでなく、取水口の下流に、あのような水溜まりが沢山有るのではないか。いやそれどころかもっと凄い淵が並んでいて、そこには遙かに大きなイワナが、群れをなしているのではないだろうか。

そんな光景を思い浮かべると、夢は際限なく膨らんでしまう。これはもう実際に行ってみて、この目で確かめるしかない。話し合いをしなくても、既に二人の間に結論は見えていた。

一週間が過ぎた。魚が釣れすぎ、遡行に思いのほか時間が掛かることを心配し、我々は朝食を済ますと直ぐ谷に向かった。捕らぬ狸の皮算用ではあったが、水溜まりの出来事が、これからの成果を疑いのないものにしていた。

取水口への降り口を通り過ぎ、我々は林道を下流に向かった。谷は上流より更に深いV字峡の様相を呈していて、林道から谷底の様子を窺うことさえできなかった。
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大岩が行く手を遮る。魚の気配がない。

1km近く下った時、ガレ場の下に川が見えた。急な崖ではなかったので、我々はそこから谷底に降りることにした。川原に降りる途中、私は周辺を注意深く観察したが、何の足跡も見えなかった。ここから谷に降りるものは居ないようだ。

谷底は相変わらず狭く、僅かな光しか差し込んでいなかった。水量は予想したとおり、少しばかり増えているように見えた。途中で沢の水が多少なりとも加わるのだろう。

下流側は少し開けていたが、目指す上流は行く手に岩の壁が立ちはだかり、その先はどうなっているのか判らない。我々はリーダーの先にフライを結び終えると、少しばかり緊張しながら遡行を開始した。

入り口

正面の岩壁に近づいてみると、谷はそこでほぼ直角に折れ曲がっていた。両岸とも岩壁が屹立し、頭上は谷底と同じくらいの幅で空が覗いていた。その角を曲がったとき、少しばかり悪い予感がした。谷がいよいよ狭まっただけでなく、大きな岩が谷底も塞いでいた。その先の両岸はもはや垂直を通り越し、底に向かって斜めに切れ込んでいて、帯状の空も斜め上に走っていた。

谷底を塞いでいる大岩に這い上がってみると、その先は淵になっていた。水深は幾らもなかったが、その先がまた巨岩で塞がれており、水は落差5mほどの滝となってその岩肌を滑り落ちていた。

足下の様子から、もしこの先が行き止まりでも、何とか戻れる目処が付いたため、我々は岩の上から淵に飛び込んだ。滝の両岸は2m程に狭まっていたが、流れ落ちる水の際を登ることができた。ところが登ってみると、谷はまた直角に右に折れていて、その先が見えない。

曲がり角で恐る恐る見上げると、直ぐ奥に落差3m程の滝があった。岩肌を少し眺めただけだったが、踏破するのに問題なさそうだった。我々は戻らなくてはならない状況に陥ることを考え、滝一段ずつ離れて進んだ。崖の途中で行き止まりになったとき、一人が下にいると助かる。
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岩の上から上流の水溜まりへ飛び降りる。
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谷は川とは言えないほど、岩の間に深く切れ込んでいた。

酷い悪場だったが、不思議と都合の良い足がかりがあり、我々は幾つもの小さな滝を越えた。その間、狭い滝壺にフライを投げて見たが、残念ながら魚の気配は全くなかった。一度増水しようものなら、恐らくこの辺り一帯は、逃げ場のない水路と化すに違いない。

この先で行き止まりになったら、戻るのはさぞかし大変だろう。それが心配になってきた頃、突然前方が開け、久しぶりに平らな谷底が見えた。良かった、やっと瀑流帯を突破した。

嬉しいことに小さなポイントからイワナが出始めた。数は少なかったが、サイズはどれも30cmほどあった。カーブを曲がると直ぐ行く手に落差2m程のナメ滝が現れ、その下にこれまでで最も大きい淵が広がっていた。きっと大物が居るに違いない。私は慎重にフライをその落ち口の横に投げた。

フライが大きな波紋と共に消えるまでほんの数秒だった。ロッドに伝わる重さから、今までの魚より大きいことが直ぐに判った。しかし魚は水溜まりと化した淵から、外に出ることができない。暫く泳ぎ回っていたが、水面を波立てて足下に寄ってきた。全長36cm、頭の大きな雄のイワナだった。
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引き返すなら今の内。後を振り返る度にそう思う。

屏風

苦労したけれど、ここまでやって来た甲斐が有ったというものだ。この先には待ちに待った桃源郷が在るに違いない。我々はそう信じ、ナメ滝を越えた。すると直ぐその先にまたナメ滝が現れた。今度は落差が5mほどあった。上流を覗くと、その先にもナメ滝が見えた。しかし下流と違って、両岸の壁は低く、空は明るかった。

僅かばかりの滝壺であったが、ナメ滝の下にイワナが一匹居た。滝を這い上がると、全面岩盤で囲まれたすり鉢のような滝壺があった。そこにも30cmを少し越えたイワナが一匹だけ居た。その上の滝を越えると右側の岩壁が途切れ、低い尾根がその先に見えた。

目の前にはまたしてもナメ滝が現れたが、周囲が明るくなったことに元気付けられ、我々は構わず登り続けた。落差のきつい5mほどのナメ滝を二つ越えたとき、巨岩が谷を塞いでいた。水がその下から染み出ているだけで、その向こうは全く見えなかった。

我々は暫くの間、周囲の岩肌を舐めるように観察した。両岸の傾斜、空の明るさなどから、この大岩の先がそれほど険しいとは思えなかった。問題は登った岩の向こう側に降りることができるかどうかだったが、それは登って見ないと判らない。
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白の縁取りも鮮やかな36cmのイワナ。

ところがその岩に取り付くには、滝の落ち口の一番高くなっている所から岩に抱きつき、1メートル半ほど高い所にある足場に這い上がらなければならない。上がるだけでも大変だが、もしその大岩を突破できなかったら、その時は戻ることになる。しかし這い上がることはできても、後に目が付いていない限り、戻るのは至難の業だ。

私は改めて下流を眺めた。たった今登ってきた二つのナメ滝が眼下にあった。万一、足を滑らしてこの滝に落下するようなことになったら、無事でいられるだろうか。先ずはそれを見極める必要があった。

-- つづく --
2004年11月02日  沢田 賢一郎