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高原川編  --第89話--
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空が殆ど見えない。地の底に入っていくようだ。

通ラズ

真下のナメ滝は擂り鉢のような形をしていた。斜面は滑らかでその下に風呂のように水が溜まっていた。水深は2m近くありそうだから、岩にさえぶつからなければ、落下しても大丈夫だろう。その下に再び滝となって流れ出している水の量は僅かだから、続けて落下する危険性はないように思えた。

私が立っていたのは一際高くなった擂り鉢の縁で、雑誌一冊分ほどの広さだった。真っ直ぐに立てる場所はそこ以外にない。眼前の大岩に取り付くのもそこからだし、戻るとなれば、その上に飛び降りなければならない。

周辺を何度も見渡した後で、私は意を決し、岩に這い上がることにした。カメラとロッドを直ぐ下に居る加藤庄平に預け、岩に頬ずりするような格好で張り付くと、慎重に這い上がった。

上手くいった。安全な足場を得ると、私はそのまま岩を2mばかりよじ登り、岩壁と岩の隙間から上流を窺った。直ぐ目に入ったのは、平らな川原であった。ナメ滝はここが最後らしい。しかし安堵したのは一瞬であった。私の乗っている大岩の上流側は、ほぼ垂直に切り立っていた。そればかりでなく、両側の岩壁はオーバーハングしていた。
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難所を越えたと思ったら、行く手にまた難所が待ち構えていた。ルートを決めるのも真剣だ。

万事休すだ。飛び降りることは可能かも知れないが、決して元に戻れない。この先に通ラズが在ったら、我々は岩の中で缶詰になってしまう。ここは戻るしかない。

「だめ、無理だ」

「ここは越えられない」

私は首を捩るようにして、下にいる加藤庄平に向かって叫んだ。

着地

予想が外れ、どっと疲れが出た。しかし元に戻ることを考えると、一気に緊張が高まった。私はゆっくりと足を運び、一番下の足掛かりまで降りた。ここから滝の落ち口の岩に降りなければならないのだが、後ろ向きではそこが見えない。下から支えて貰おうと思っても、狭すぎて二人乗ることができない。

私は両足をゆっくり入れ替え、身体の向きを逆にした。斜め下にある岩のてっぺんに飛び降りなければならない。この時のことを考え、登るときに靴底で岩肌を擦っておいたが、滑りやすいことに変わりない。
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再び行く手を塞がれる。

加藤庄平にその直ぐ際まで登って、跳躍した身体を押さえて貰うことも考えたが、失敗したら二人揃って落下してしまう。その方が危険だ。私は彼に下の滝壺近くまで降りて貰った。そこで待っていて貰えば、万一私が滝壺に落下したとき、直ぐに手を差し伸べて貰える。

私はもう一度下の滝を眺めた。着地に失敗したときは、身体を岩にぶつけないようにしなければならない。岩壁にしがみつかず、足から滝壺に飛び込むことを順序立てて考えた。

私は身体を出来る限り低くすると、斜め下の岩の先に向かって静かに跳んだ。バシッという音と共に、私は幸運にも狭い岩の上に降り立つことが出来た。

尾根道

何とか戻ることが出来た。しかし我々が難所を乗り越えた訳ではなかった。さてこれからどうしよう。我々は少し下流で右手に低い尾根が見えたのを思い出し、二つのナメ滝を下った。
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もうだめかと思ったが、何とか踏破する。

右側の尾根に上がるのは容易だった。問題は谷を塞いでいるあの大岩の上に、降りられるかどうかだ。間もなく尾根の上に出る所で、私は前方に踏み跡らしきものを発見した。微かではあったが、尾根に沿って上流へ向かっている。

「庄平さん、道がある。これで上に行ける」

何ともあっけなかった。踏み跡に沿って岩の尾根を歩くと、いとも簡単に大岩の上流に回ることが出来た。それにしても、こんな所まで釣りに来る人が居るなんて。

我々は自分たちのことを棚に上げて、川原に降りた。降りる直前、踏み跡は砂地を通っていた。そこで私は初めてその踏み跡の主が判った。砂にはカモシカの蹄の跡がはっきりと残っていた。

そこから上流は暫くなだらかだった。両岸は切り立っていたが、長くは続かず、森の中を歩いているような所さえ在った。谷底は埋まり気味で、目立ったポイントもなく、時折顔を出すイワナも小さかった。
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エサ不足のせいか、イワナが細い。

このまま終わってしまうのだろうか。そう思い始めたとき、前方に再び岩の壁が現れた。近寄って見ると、その先は狭い水路になっていた。陽当たりが悪くてよく見えない。フライを投げてみたが、それらしき反応はなかった。水深があっても、陽が当たらない所に魚は居ないものだ。

水路は想像していたよりも深かった。流れが殆ど無いから良いようなものの、少しでも有ったら越すのは困難だったろう。落ち込みの岩に這い上がるのに、一時は胸まで水に浸かってしまった。
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カメラが濡れ、フィルムも水を被ってしまった。

大淵

岩に上がってみると、目の前に岩の壁に囲まれた大きな淵が見えた。奥行きがあり、陽当たりも良かった。その淵の規模からして、この谷随一のポイントであることは確かだった。

やれやれ、漸く絶好のポイントが現れた。ナメ滝の下にあった大きな淵には36cmが居た。この淵ならそれ以上のサイズが期待できる。

私は加藤庄平が大物を釣り上げる瞬間を捕らえるべく、後に下がってカメラを取り出した。ところがカメラバッグを開けて驚いた。カメラをくるんでいるビニール袋がいつの間にか緩み、中が濡れていた。カメラは大丈夫だろうか。中のフィルムは水を被ってしまったろうか。

今更心配しても手遅れだが、レンズが曇っていない所をみると、たった今越えたばかりの水路で濡れたものだろう。私はカメラに付いた水滴を拭い、加藤庄平の背中越しにプールを覗いた。

シャッターを数回押したところで、私は淵の佇まいが何処となく気になり、ファインダーから目を離すと、周辺を改めて眺め渡した。
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何処かで見た淵だと思ったら、あの水溜まりだった。

間違いなかった。上流から見ただけだったので、直ぐに気が付かなかったが、目の前にあるこの谷きっての素晴らしいプールは、あの時の水溜まりだった。

一週間前に見た水溜まりのおかげで、我々は夢を膨らませ、桃源郷を目指してこの厳しい谷を必死で遡行した。しかしその水溜まりを越える良い淵が無かったとは。まるでビギナーズラックで大物を釣ってしまった時のようだ。次はもっと大物が釣れると期待するが、そんな幸運は簡単にやってこない。

私はカメラが心配だったため、先に淵を越した加藤庄平にラインを投げて貰い、それに掴まって、深い淵の中を落ち込みまで引っ張って貰った。水が滴り落ちる岩を這い上がり下流を見下ろすと、眼下に見覚えのある景色が広がっていた。

「お疲れさん」

我々は互いにそう言い合うと、何時も取水口に向かって降りた階段を、初めて林道に向かって登った。

-- つづく --
2004年12月03日  沢田 賢一郎