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高原川編  --第92話--
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分岐点から右俣を遡行する。この付近は未だ水が少ない。

予兆

イブニングライズの時間、それも後半になってドライフライへの反応が悪くなり、同時にウェットフライへの反応が良くなる。この現象は何処でも見られる。同じ現象がイブニングライズの始まる前に起こることだって、特別珍しい訳ではない。しかし右俣の場合、その時間が余りに早い。

何故そうなるのだろう。おぼろげながら、海抜の高さが関係しているような気がした。

はっきりした理由が判らなければ、魚の嗜好の変化という現象が起こるかどうか、事前に知ることは難しいだろう。けれども魚の関心がドライからウェット、又はその逆に変わったことに気づけば、的確なタイミングで釣り方を変えることは可能だろう。私は何らかの方法で、なるべく早くその変化を察知することを考えた。

月が変わって8月の旧盆の最中、私は3回目の右俣を目指した。今度は全域を釣ろうと思っていたので、朝食を済ますと、例によって加藤庄平と共に両俣の分岐点から渓に入った。
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8月の後半ともなると、色の明るい太ったイワナが混じるようになる。

キラービー

空がとても高い日で、紫外線を身体で感じるほどだった。燦々と降り注ぐ光と熱気で、落ち込みの白泡がとても眩しかった。私は過去二回の経験から、その日も夕方近くになって、魚の嗜好がウェットフライに向かって急変すると確信していた。同時に、昼間はドライフライを使った方が、魚の反応が良いことも判っていたから、支度を終えると、真夏の山岳渓流の定番とも言えるキラービーをリーダーの先に結んで釣り始めた。

キラービーはこうした真夏の源流のために作り上げたフライで、1970年代の後半から、私は黒いハックルのモデルを専ら使用していた。決して見易いフライではないため、白泡の中に落とすことを心掛けた。見失うことさえ無ければ、魚の反応が素早いため、狭い落ち込みが無数に続く渓では、それまで本当に重宝していた。

遡行を始めてから暫くの間、魚はあまり顔を出さなかった。魚の反応が悪いと言うより、魚の数が明らかに少ないためと思えた。しかし途中にある発電所を越えた辺りから、イワナの出方が良くなってきた。
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右俣最後の取水口。
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取水口を越えると、渓は本来の水量を取り戻す。

キラービーはワイルド・キャナリーやスペント・バジャーと言ったスピナーと違って、魚に食われた後の浮力が落ちやすい。続けて3匹ほど釣り上げると、沈みやすくなってしまう。私はときどき新しいフライに換えながら、渓を遡った。

昼近くになって白出沢の近くまで辿り着いた。その付近まで来ると砂防堰堤が次から次へと現れ、渓を塞いで流れを分断してしまう。おかげで魚の数は減るし、行く手に立ちはだかる壁を越すのも煩わしい。何処の渓に入っても、この砂防堰堤に出くわすと思わず腹を立ててしまう。

白出沢の出合いを過ぎると、もう堰堤が無いと言うだけで気分が良くなる。イワナの出方も良くなるから尚更だ。その日は過去二回と比べ、魚の数が少し減ったように思えた。しかし平均サイズが大きくなったように感じられた。大きいイワナばかりが顔を出すと言うのでなく、初めて来たときから一ヶ月近く経つうちに、イワナがそれだけ育ったような気がした。体色も薄いものが増え、太っている魚が多かった。
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堰堤を越す。何処の堰堤も上はすっかり埋まっている。

気配

射るような陽差しも、太陽が西に傾き始めると共に和らいできた。午後二時を過ぎた頃、白泡の上に着水したキラービーが泡を抜けた瞬間、激しい水しぶきと共に姿を消した。反射的に合わせると、魚は一直線に下流側へ走った。

全く予想外の鋭い引きに一度は大物かと思ったが、引き方がどうもおかしい。強いのに軽い。もしやと思ったら案の定、友釣りの鮎のような格好をしてイワナが上がってきた。フライが胸びれの辺りに張り付いている。

猛スピードで襲いかかったイワナが、フライを捕らえ損ねたのか、或いは途中で止めたのか、とにかく反転したときに針が掛かってしまったのだ。
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遡行する我々を不思議そうに見つめるカモシカ。
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左俣も右同様、堰堤が続く。

キラービーは魚の出方の速いフライに属するが、そのイワナの出方は明らかに異常だった。しかし突然の出来事ではなく、その兆候は少し前から現れていた。

イワナの出方が次第に速く、どことなく神経質になって来ていたのだ。

右俣のイワナは、私が使ってきたドライフライがもう気に入らなくなった。目の前でバタバタと暴れているイワナは、それを知らせる最も明確な合図だった。

渓流、特に夏の山岳渓流をドライフライで釣る限り、状況の良いときほど魚がフライに接近する速度がゆっくりしている。余りに遅いのは逆に良い兆候ではないが、魚種を問わず、ゆっくりと、我々釣り人にとって最も合わせやすい速度でフライに襲いかかる。
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8月になると、イワナの平均サイズが少し大きくなり、太ってくる。
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ピラミッドのようにそびえ立つ堰堤。一つ越え、二つ越えても、また現れる。

それは魚にとっても同じで、丁度良い速度とは、発見したフライを確実に捕らえるための速度だ。急ぐ必要が無いのに猛スピードで襲いかかるのも、急がないと流れて行ってしまうのに、何時までももたもたしているのも、共に本気でフライを捕らえるつもりがないことの表れである。

その傾向からすると、キラービーに対する魚の出方の変化は、とりもなおさず魚の嗜好の変化を表していると見て良いだろう。私にウェットフライという選択肢が無ければ、その傾向を緩和するため、フライをキラービーからブラック・コーチマンやブラックバットに換えた。しかしそれはドライフライに対する暫くの延命策でしかない。何れ効果が薄れる。

私はそのイワナが飛び出してきたのを合図に、ドライからウェットフライに換えた。ポイントが狭いので、予め作って置いた3Xのリーダーのバットを詰め、7フィートほどにした。リードフライはもはや定番と化した12番のシルバーサルタン、2Xのドロッパーに10番のジョックを結んである。

私の予想が当たれば反応が良い筈だ。しかしもし悪ければ、その時はまた振り出しに戻って考えないと。さてどんな結果が出るか、私は興味津々だった。
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何を引き金として、イワナはドライからウェットへ興味を移すのだろう。
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高い堰堤は魚にも、釣り人にも苦難を強いる。

フライを交換した地点から少しの間、渓はザラ瀬となって流れていた。私はそれまで使っていたドライフライと全く同じ方法で、上流に向かってウェットフライを投げた。フライは見えなかったが、水面直下を流れているはずだ。

流れるコースを変えるため、フライを対岸側に寄せて落としたとき、私の目の前に突然イワナが姿を現した。そのイワナはゆっくり浮上すると、水面を割りそうになったところで反転した。私はそれを見届けると、確信を持ってロッドを持ち上げた。心地良い手応えと共に、そのイワナが瀬の中を走り回るのが見えた。

それ以降、浅い瀬の中は水面直下をドライフライの様にナチュラル・ドリフトさせ、落ち込みは一度泡の下に送り込んでから浮上させた。どちらの場合も、的確な当たりがやって来た。フライが見えないのに、ドライフライを使っていたときよりゆっくりと、しかも確実にフッキングできた。同じ魚がフライの種類や流れ方が変わっただけで、これほど異なる反応を示すものか。私にとって右俣の釣りは、そうした現実を体験した思い出深い釣り場となった。

-- つづく --
2005年07月02日  沢田 賢一郎