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湖沼編 • 丸沼  --第19話--

ドライフライで釣る湖のレインボー

日光の最も奥、周囲を深い山に囲まれ、こぢんまりとした湖がある。湖面は何時も静まりかえり、下界と隔絶した雰囲気を醸し出している。それが丸沼と呼ばれる湖だ。1965年頃、私は未だ学生であったが、一度だけ釣りに行ったことがあった。当時の私はフライのことなど知る由もなく、ヘラブナと鮎釣りに夢中であった。そのヘラブナの大物が丸沼にいるらしいと言う怪しげな情報を頼りに、出かけたのが最初であった。丸沼に着いて見ると、水が澄みすぎているし、岸の傾斜はきついし、とてもヘラブナが釣れるような雰囲気ではない。第一、ヘラブナを釣りに来た人などそれまで誰一人として居ないと言われて、意気消沈したのだが、折角来たのだから試しに釣ってみようと言うことになった。私は古いホテルの建っている奥まった方の岸に適当な足場を見つけて釣り始めた。2時間ほど釣ってみたけれど、釣れそうな気配など微塵も感じられず、早々に止めてしまったのだが、その時、浮子の近くで魚が何回も跳ねていたのを覚えていた。どんな魚だか判らなかったが、少なくともその跳ね方からしてヘラブナでないことは確かだった。
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スペックルド・セッジ。湖の釣りで大活躍したドライフライ。

それから10年ほど経って、私は初めて丸沼へレインボーを釣りに出かけた。8月の末頃だったと思う。家を出るときは暑くて仕方なかったが、着いてみると、湖畔はもうすっかり秋の気配が満ちていた。なにより、ヘラブナを釣るのと鱒を釣るのでは、湖がこうも違って見えるものかと、一人で感心していたのを思い出す。最初にヘラブナ釣りに出かけた時と違って、今度は僅かながら、ドライフライで釣れたという情報があったから、私はボートに乗ると、船着き場と反対の国道側に向かって漕ぎだした。

丸沼は周囲の大部分が切り立っているため、岸際に生えている木の枝が水面に向かって張り出している。木が大きいと張り出した枝が傘のように水面を覆い、日陰を作っている。そこは枝から落ちてくる昆虫を待っている魚にとって、絶好のすみかとなっているはずだ。国道側に近づくにつれ、そうした場所が多くなってきた。

私は岸から30m程離れたラインに沿ってボートを漕ぎながら、そうした枝の下を覗き込んでいた。湖を半ば横断し終える迄に、その枝の下で起きたライズを幾つか見つけた。小さなライズだが、湖面が余りに静かなため、離れた場所からでもよく見えた。やがて数本の木々が連なって大きな日陰を作っている場所に差し掛かったとき、目の前でバシャといった音と共に、水の輪が広がった。私はボートを漕ぐ手を止め、静かに立ち上がって釣り始めることにした。
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ボートから岸寄りの枝の下を狙う。

スペックルド・セッジ

9フィート、3Xのリーダーの先に結んで置いたフライは、10番のフックに巻いたスペックルド・セッジだ。湖で使うドライフライだからテレストリアルが良かろうと、少し前に誕生したばかりのフライを選んだ。6番のウェイトフォワード・ラインを使って投げると、その灰色のフライは、まるでタンポポの綿毛のように20m程先の水面に浮かんだ。

「少しフライが大きすぎたかな」と心配になるほどぽっかりと水面に乗っている。しばらく待ったが何事もない。私はラインを幾らか手繰ると、5m程離れた場所に投げ直した。今度は30秒ほど待ったが、フライは投げたときと同じ姿勢で浮いたままである。私はラインを手繰ると再び5m程場所を離してフライを投げた。その時、30m程離れた岸のそばでライズが起きた。先ほど目の前で起こったライズとそっくりである。

「何だ、あの魚はあんな所に行っていたのか」私はそのライズを無視して目の前にフライを浮かべていたが、1分も経たない内に先ほどのライズからほど遠くない場所で又ライズがあった。同じ跳ね方である。

「あいつ、まだあの辺にいる」私は我慢できなくなって、ボートを岸沿いに移動させ、ライズのあった場所にフライを投げた。すると、ほぼ同時にフライの左側10m程の地点でライズが起きた。私からの距離は似たようなものである。私は急いでラインをピックアップすると、広がり始めたそのライズの輪に向けてフライを投げた。フォルスキャストをせず、ウェットフライ・キャストでそのまま投げたため、着水したフライを取り囲む輪の大きさは未だ2mにも満たなかった。上手くいった、タイミングは申し分ない。数秒後、まるで絵に描いたようにフライは派手な水飛沫と共に消えた。合わせと同時に魚は沖に向かって走り、次いで横っ飛びに水面を割った。レインボーだ。数分間のやりとりの後、ボートの縁に寄ってきたのは30cmを少し上回る綺麗な魚だった。
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ドライフライに飛びついたレインボー。透き通るような美しさ。

追っかけと待ち伏せ

初回に10匹近い数のレインボーを釣り上げ、しかもその魚が全て野生化した美しいファイターだったことから、私の中で丸沼の評価は急上昇し、毎週のように通うようになってしまった。9月の末までに数回にわたって釣りをする間に、この湖とそこに住む魚の特徴を含め、ドライフライで湖を釣る方法が次第に判ってきた。

特徴の第一として、張り出した枝の下に居る魚に限らず、岸の直ぐ近くを回遊する魚は、それぞれが一定のコースを回る場合が多いことだ。彼らは水面に浮いている餌を探しながらクルージングし、餌を見つけると浮上、捕らえると直ぐに沈んで元の回遊コースに戻ると言った行動をとる。そのため私は二種類の釣り方を自然にとるようになった。

一つは追いかける方法だ。ライズを見つけた時、それがボートを動かさずにフライを投げられる範囲であれば、できるだけ急いで投げる。しかし少しばかり移動しないと無理な場合、移動しながらライズを観察し、魚がどちらの方向に泳いでいるかを知る。そうして魚が次にライズしそうな場所にフライを投げるのだ。予想が上手く当たった時は正にしてやったり。しかし失敗すると全く反対の方角でライズする魚を見ることになる。そうなったらもう一度初めからやり直しだ。
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クルージングしている魚を釣るには回遊コースを予測することが決め手となる。

単発のライズの場合、初めはいつもライズのあった場所にフライを投げていたが、魚が出てくる確率はかなり低かった。それもその筈、その場所に居着いている魚がライズしたのでない限り、クルージングしている魚はライズと同時にその場所から遠ざかっている。つまりライズした場所はその時居た所であって、今はいない場所である事が多い。だからといって、少し離れた場所にフライを投げるのは完全な当てずっぽうになるから、運を天に任せるしかない。

水面に浮いている多くの餌を魚が狙っていると、ライズが一定の方向に沿って次々に起こり、魚の進行方向から、その速度までが手に取るように判る時がある。こんな時はかなりの確率で予想が当たり、とても面白いのだが、ライズが全て単発だと、かなり辛くなる。

もう一つの方法は待ち伏せだ。岸近くの一カ所、もしくは数カ所で半ば定期的にライズがある場合、コースは判らないが、魚が回遊していることが判る。離れた場所に出かけてしまった魚を追いかけると、徒労に終わることが多いが、ライズの起きた場所にずっとフライを浮かべ続けていると、戻ってきた魚が出てくる。浮いている餌が少なく、ライズも多くないときは効果的な方法だ。
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瞬時に次のキャストができるよう、ボートの底にはシートを被せ、ラインが絡まないよう工夫する。

悪条件、或いは時間のせいで、ライズが殆ど見られず、追っかけも待ち伏せもできない時がある。そういうときは風上から風下に向かって岸沿いにボートを進め、フライを岸の近くに等間隔で投げていく。魚が出るのは岸から5m以内が多く、それ以上離すと急に少なくなった。

当時、私はドライフライで魚を釣ることが圧倒的に多かったため、丸沼でもウェットフライを使う機会が僅かしか無かった。その頃の丸沼は釣り人が極端に少なく、何時も殆ど貸し切り状態だったし、ライズが無くて退屈する日も少なかったから、ドライフライだけで困る事は無かった。それでも理由は判らなかったが、ライズが全くと言って良いほど起こらない時があった。そんなとき、試しに6番のウェットフライを結んで岸に向けて投げ、ゆっくりラインを手繰って見たことがある。するとライズもなくドライフライに反応のない時でも、フライにアタックするレインボーが必ずいた。しかしそれを何時までも続けなかったのは、やがてライズが始まり、それと共に私がフライをドライに変えてしまったからだ。

-- つづく --
2001年08月26日  沢田 賢一郎