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サクラマス編 • 第2ステージ  --第64話--

糸鳴り

岸に上がっても魚は未だ動かない。私はゆっくりとラインを巻き、更にロッドを大きく曲げた。魚は急に走った。スティールヘッドを釣った時にしか聞いたことのない甲高いリールの音が、風の中に響き渡った。魚は一気に流心の向こう側に達すると、そこでまた動かなくなった。

凄い魚がやって来たぞ。まともにファイトする魚と巡り会えた驚きと喜びが私の身体に満ちていた。今までと違う。針が外れないよう慎重に操作するのでなく、力の限り渡り合うのだ。

私は既に岸に上がっている。プールの開きまでは十分な距離があるし障害物は無い。魚にとっても同じだ。プールは雪代で溢れかえっている。その流心を跨いで対岸に居るから流れを味方にできる。下の瀬に下ったら勝ちだ。
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激しく抵抗した魚も遂に浮上した。そのまま引き寄せにかかる。

暫く膠着状態が続いた後、魚はゆっくり上流に向かって移動し始めた。私もそれに合わせ、ラインを巻き取りながら少しずつ強く引き寄せた。ロッドが大きくしなり、張りつめたラインが風を切って唸り声を上げている。17フィートを使うようになってから始めて聞く糸鳴りだ。魚は再び流心に張り付いて、まるで根が生えたように動かない。

私は半ば寝かせていたロッドを高く上げ、魚を川底から引き離そうとした。嫌がった魚は二度三度、頭を大きく振ると、また下流に走った。ファイトは振り出しに戻ったが、魚は動き出した。針を外そうと暴れながら、流心の向こうを泳ぎ回っている。頃合いを見て流心まで引き寄せると対岸に向かって走る。それを数回繰り返したが、遂に流心のこちら側にやって来た。

私はチャンスとばかりにラインを巻いた。魚との距離が見る見る詰まってきた。波間から顔を出したフライラインが、カサカサと言う音と共にロッドティップに吸い込まれていった。魚は又、そこで止まった。
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足下でそれはミラーボールのように輝いていた。

今度は手前のカケアガリの際にへばり付いてしまった。私はランディングに備え傾斜の緩やかな場所に移動すると、ロッドを寝かせて思い切り引き寄せにかかった。17フィートが再び大きくしなる。それでも魚は動かない。まるで底石にくっついてしまったようだ。

リーダーが石に挟まってしまったのではないか。本気でそう心配し始めた頃、魚は力尽きたと言わんばかりに浮上した。陽の光を反射してまるでミラーボールのように輝く物体が、水面を波立てながら私の足下に近づいて来た。その姿を間近に見たとき私は息を呑んだ。
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フライが見えない。アクアマリンをすっかり飲み込んでいた。

背中は透けるような淡いオリーブ色。脇腹以下は真珠と銀を合わせたように光っている。身体の厚みと幅はそれまで釣ったどのサクラマスよりも豊かだった。魚の姿に見とれていたせいでもないだろうが、差し出したネットの枠がひしゃげてすくい損なったときにはヒヤッとした。

改めてすくい直した後、私はネットの中の魚に見とれた。サクラマスを釣り上げる度にそうするのが常とはいえ、私は感動のあまり長い時間、溜息を吐くだけで言葉を失った。この時ほどサクラマスが美しいと思ったことはなかった。体長64cm、重さ3.6kg。この数字だけでは到底伝えることのできない世界がそこにあった。
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フレッシュランの重みをかみしめる。

フィッシング・ルール

暦の上では3月になったが春は昼間だけだ。夕方の気配が満ちる前に気温が下がり始める。4月ならこれからが良い時刻なのに、今はもう終わったような雰囲気が漂っている。

未だ暫く釣り続けることは可能であったが、私は早めに宿に向かった。私が帰って間もなく全員が戻ってきた。残念ながらその日、魚の当たりを感じた人は他に居なかったから、私の魚は遡上のほんの走りだったのだろう。

その日、私がサクラ熱を患っている人達に集まって貰った理由の一つに、この釣りの共通のルールを広めて貰う狙いがあった。サーモン・フィッシングの世界では遙か昔から釣り方のルールが決められていて、新しく始める人は先ずそのルールを学ぶことから始まる。

そのルールとはとても単純なものだ。アングラーはプールの頭から釣り始め、一投毎に数メートルずつ釣り下る。プールをたった一人で釣る時を除いて、必ずこれを守る。他のアングラーの直ぐ下流に入ったり、一カ所で立ち止まって釣ることを禁止している。複数のアングラーが一つのプールを釣るにあたって最も合理的なルールだ。
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春の陽を浴びて美しい魚体がよりいっそう輝いた。

しかし日本にはサーモン・フィッシングの歴史が無いから、このような常識が有ることを誰も知らない。何も知らない人達が大勢集まってしまったら、釣りそのものが成り立たなくなる。サクラマス釣りはいま始まったばかりだ。先頭を切って釣りをする人達がそのルールを守り、普及させれば、近い将来、大勢の人達がこの釣りを公平に楽しむことができる。

それから数年後、九頭竜川にはサクラマスを狙うアングラーが大勢詰めかけるようになった。釣り方の違うルアーの釣り人との摩擦は起こったが、フライフィッシャーマン同士は共通のルールに則って釣ったため、人数が多過ぎると言う問題を除けば大した混乱はなかった。
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力が強かっただけあって、そのプロポーションも極め付きだ。

カッパー・チューブ

翌3月7日、晴れていたが雲が多く、風の冷たい日だった。私は前日に入れなかったプールを回るつもりで幼稚園前の土手に向かった。車止めの手前に見覚えのある車が止まっている。未だサクラマスを釣ったことのない人の車だった。土手から見る限り一人しか居なかったから私が入るスペースは十分にあったが、私はそこを諦めて下流に向かった。

送電線下と合流点にも予想通り数人が入っていた。それでは8号線はどうかと思ったが、やはり人影が見える。結局、前日と同じように私は更に下ることになった。前日釣ったプールの上下を釣り、更に下流の鉄橋までを探ったが、水量が多すぎて程良い流れは見つからなかった。

時間は間もなく正午になろうとしていた。この時間帯だけはフライを投げていたい。私は大急ぎで北陸道の橋桁に向かった。平水なら良いプールになるのだが、やはり水が多すぎた。私はそのまま河原を下ったが、何処も流れが強すぎてこの季節向きではなかった。
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釣り上げた時はまるで金魚のようだった。

2時近くになって私はさすがに空腹に耐えられなくなり、昼食をとるために川から上がった。良い時間帯が過ぎてしまったから今日はもう無理かも知れない。そう思ったがあと一度フライを流したくて、私は食事を早々に切り上げると川に向かった。

五松橋に着いてみると幼稚園前に人影が見えたが、下流の土手には車が見えない。他の場所も空いているかも知れないが確かめる時間がない。私はそのまま下流に向けて車を走らせ、送電線に沿って河原を歩いていった。

陽が陰っているせいか川の流れはどことなく寒々としていた。朝は多勢いたのにいま誰も居ないところをみると、今日は釣れなかったようだ。私は歩きながら時計を見た。3時半を過ぎている。2カ所を釣ることはできない。私は迷いながらも送電線下のプールを通り越し、昨日と同じ合流点プールに立った。

この24時間の間に下から上がってきた魚は居るだろうか。可能性は限りなくゼロに近いだろう。それでも折角やって来たのだ。一度だけ流してみよう。私はフライボックスからアクアマリンを取り出し、リーダーの先に結ぼうとして手を止めた。今日は朝から数え切れないほどの回数、アクアマリンがこのプールを泳いだ筈だ。しかも既に温度は下がり始めている。何かを変えた方が良いのではないか。
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このニジマスはいったい何処からやって来たのだろうか。

私はアクアマリンを仕舞うと、もう片方のフライボックスから巻いたばかりのフライを取りだした。カッパー・チューブに巻いたグレーイーグルだ。カッパー・チューブを使うのも初めてなら、イーグルを釣りに使うのも初めてだったが、冷たい水が沸き上がっているプールに似合いそうな気がした。

ひどく投げにくいフライだったが確かに良く沈んだ。前日フレッシュランがやって来た場所に差し掛かった時は、さすがに喉がからからになったが、何事もなく通過してしまった。やはり空か。猫柳の下と言っても2匹目のドジョウは居ない。開きまであと数投を残すだけになり殆ど諦めかけた頃、竿先にゴンッと言うショックが伝わってきた。明らかに魚の当たりだったが、サクラマスともウグイとも違った手応えだった。

ロッドを上げると激しく身体を震わせて抵抗したが、長い距離走ろうとしない。私はネットを出さずにその魚を河原に引きずり上げた。その魚はまるで金魚のように赤かったが、近寄って見るとニジマスだった。九頭竜川でニジマスを釣ったのはそれが最初で最後だったが、居着いていたものか下流から遡上してきたものか、知る手だてもなかった。

-- つづく --
2002年11月10日  沢田 賢一郎