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洪水と日照り  --第15話--

静かなプール

午後は更に気温が上がった。只でさえ魚の影が薄いというのに、この天気では全く望み薄だ。我々は夜に備えて昼寝をすることに決めた 。

夕方になって、と言っても時計の針が夕方を指しているだけで、外は昼間のむっとした空気に包まれていたが、我々は夕食を済ませ、午後8時を回った頃になってホテルを出た。今日は夜中の12時までティルセットを釣ることができる。夜の釣りを始めるには未だ早過ぎたが、我々は少しばかり張り切って川に向かった。
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静かで小魚一匹見えない、そんなプールが怪しい。人が入れない対岸を狙う。

土手の上から眺める限り、否、何処から眺めても、ティルセットは魅力的な佇まいを見せていた。先週末に我々は2本の鮭を釣ったけれど、その程度の釣果はこの素晴らしいプールには似つかわしくない。どうしてもっと釣れないのだろう。私はそれが不思議でならなかったが、他のプールが釣れている訳ではないから、単に魚が少ないせいだと思っていた。

魚を見ることが多いプールは良く釣れるものだが、大型魚に関する限りそう言えないことがある。私はサーモンを釣り始めるずっと前から、そのような出来事を少なからず経験してきた。

普通の大きさの魚なら見えるのは当然だが、その川にとって特別大きな魚が潜んでいるプールは、その大きな魚は勿論、小さな魚までも全く見えないことが良くある。そのため、どう見ても素晴らしいプールなのに魚が一匹も見えない時、私は疑って掛かることが多かった。
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黒い雲がシャワーを撒いて通り過ぎていった。その後に見事な虹が残った。

その反対なのが、良いプールのそのまた一番良い場所で小さな魚が釣れる時だ。サーモンの場合は、流心でパーが釣れるときがそれに相当する。そのような場合、私はそこがどんなに立派であっても、そのプールは見かけ倒しか、或いはその時点で大型魚が留守にしているかのどちらかだと思っている。

今朝、私は幸運にもヴィンスネスで11kgと言うグッドサイズを釣ることができた。しかし一度も魚の姿を目にすることは無かった。その理由は単に魚の数が極端に少なかっただけかも知れない。恐らくその可能性の方が高いだろう。

しかしもし平均よりずっと大きく強い魚、つまり釣り上げたあの魚がプールを占領し、後からやって来た魚を追い払ってしまっていたら、居着いているのはその主だけになってしまう。素晴らしく広大なプールでも、たった一匹の魚に独占され、魚影が極端に薄いプールになってしまう。
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崖下でフライを投げ始める。サイドから投げるとフライの落ち方がずっと良くなる。

ヴィンスネスが丁度そんな状況になっていたのかどうか、プールの中を覗いてみなければ判らないが、もしそうだったとすると、これから向かうティルセットにも同じことが言えるのではないか。あれ程素晴らしいプールなのに、釣れないのがどうにも腑に落ちない。

崖下

ティルセットプールの左岸は見渡す限り広い河原だ。流心が右岸に沿って流れているため、左岸側は流れが緩く釣りやすい。そのためこのプールを釣るアングラーの殆どが左岸側から釣る。我々も先週、左岸側から2匹のサーモンを釣り上げた。一方右岸側は何度も記したように、洪水で削り取られた土手に大岩を放り込んだため、足場が悪く危険だ。しかし大岩が50メートル以上に亘って転がっているため、魚にとって絶好の隠れ家となっている。

ヴィンスネスは崖側から釣ることができないから検討の余地がないが、ティルセットは両岸から釣ることができる。どちらから釣るべきか迷う所だ。私は減水のため流れが緩くなったことを踏まえ、思い切って崖側から釣ることにした。

土手の上から下を覗くと、日陰になった崖下がより一層深く、如何にも怪しげに見えた。暑さに辟易としながらウェダーを履き始めた時、上流の方で大砲を撃ち放したような大きな音が聞こえた。何だろうと思って振り返った時、また同じ音が聞こえてきた。音の聞こえた方角の空が気のせいか暗い。もしやと思って眺めていると、直ぐ近くに稲妻が走り、遅れて轟音が響き渡った。雷だ。それもこちらに向かって来る。

大きな稲妻を見ると、長いロッドを持つのはさすがに気が引けた。しかし恵みの雨が降りそうな気配に我々は小躍りし、車の中から上流の空を眺めていた。雨は驚くほどの速さでやって来たが、喜んだのも束の間、河原の石を濡らしただけで行ってしまった。後には夕日に照らされ、見事な虹の輪が幾重にも川の上に掛かっていた。晴れたり降ったり天気の移り変わりが激しいから、ガウラではしばしば虹を見る。しかしこの時ほど見事な虹を見たことはなかった。私は安全のためマリアンを土手の上に残し、その虹を眺めながら一人で岩だらけの土手を水際に向かって下りた。築いてから未だ時間が経っていないため、かなり大きな岩でも乗ると動くものがある。私は慎重に足場を選んで歩いた。

雨上がり

予め目を付けておいた場所の直ぐ上流に立ち、私はフライを投げてみた。道具立ては朝と変わりない。ロッドは17フィート。インターミディエイトのラインの先に1-1/4インチのローズマリーが結んである。
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ほんの数投しただけでラインが引きずり込まれた。虹を背景にファイトが始まる。

目の前の流心にスペイキャストでフライを投げてみたが、フライの落ち方がどうも気に入らない。朝方のように水面に叩きつけるように投げないと釣れる気がしない。

幸い後方の土手が低いので、サイドキャストは可能に思えた。試しに投げてみると、見違えるようだった。フライは水に入った瞬間から上流を向き、生き生きと泳いでいる。下流に引かれることが全くなかった。こうでなくてはいけない。私はそれを見届けると2mほど下り、最初に目を付けた場所にフライを投げた。

僅か15メートル余りの距離だったが、光線の具合で落ちたフライは見えなかった。ほんの数秒後、動き始めたラインがいきなり真っ直ぐ張り、同時にリールの音が鳴り響いた。魚の姿は見えなかったが、水面直下にあったフライを何かが捕らえたのだ。

まさかこんなに早く、しかもあっさりと魚が掛かって良いものだろうか。陽が差しているのに雨が降る時、狐が嫁入りすると言うが、私は嫁入りで通りかかった狐に摘まれた気がした。しかしこのまえ狐に誑かされたと思った時、あの素晴らしいサーモンを釣り上げたのだ。今度もそんな風になれば良いなと、都合の良いことを念じていた。

私は土手の上のマリアンに向かって魚がやって来たことを告げた。彼女は虹を背景に撮影することを考えていたので、魚が掛かったことが耳に入らなかったようだ。まだ3回しかロッドを振っていないのに、魚が掛かっているなんて、釣っている私だって信じられなかった。

私は手を振りながら大声でマリアンに「魚、魚、」と叫んだ。彼女はやっとそれに気が付き、私の方にビデオカメラを向けて撮り始めた。

私は足場を選んでから、ゆっくりとラインを張った。それまで動かなかったサーモンは流心に乗って20mばかり下って止まった。私は再び静かにロッドを起こすと、リールをゆっくりと巻き始めた。サーモンは抵抗もせず静かに寄ってきた。
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陸の上も水の中も、釣りをするには危険が一杯だった。

怪しい。フッキングして直ぐ、足下に向かって泳いでくる魚は大物が多い。これは要注意だ。私は岩の上に乗っているから足下の水中が良く見える。フライラインの大半を巻き取り、リーダーの結び目が水面に現れた時、その先の水中がボーッと明るくなり、白っぽい大きな固まりが目の前に浮いてきた。

「大きい」

そう思った時、魚は私の方に向きを変えた。顔が見えた。顎が曲がっているのが判った。そして私と目があった。

彼は自分の置かれている状況にやっと気が付いた。あっという間に30mほど走り、そこで大きく跳ねた。

「でかい」私は思わず声を上げた。

サーモンは次いで対岸側に向かって走った。下流の流心で止まった時、凡そ70mほどのラインが引き出されていた。私はどうしようか迷った。この酷い足場でファイトすべきか、或いは魚と共に下流のニュープールまで一緒に下ってファイトした方が良いのか。

私は土手の上にいるマリアンに、川沿いにニュープールまで下れるかどうか尋ねた。翌年は何でもなく歩けるようになったが、その時は未だ大岩が転がっているだけだった。彼女の答えは、危険だから止めた方がよいと言うことだった。
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やっとの事で土手の上に持ち上げた。ガウラらしい美しい姿の雄だった。

私はその場所を動かずにファイトする覚悟を決め、より安全な足場を探して移った。ルンダモにあるロアーガウラビートでファイトした時と同じように、私は魚を真上から引き揚げた。サーモンは近くまで来ると、決まって反転して下流に戻った。そのたびにラインが沈んでいる大岩の脇を通る。見ているだけで冷や汗が出た。

サーモンは高水温のためか、10分近く経つと急に大人しくなってきた。しかしこの危険な足場でとてもランディング出来ない。私はカメラを回しているマリアンに声をかけた。彼女はカメラを置くことを渋ったが、仕方なくネットを持って降りてきた。しかし足場が悪くて水辺を動けない。

サーモンがネットに収まる迄の数分間、本当に緊張した。後でビデオを見ると、撮影を中断したのが本当に悔やまれたが、その時は本当に危険で、撮影どころではなかった。

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クラブハウスにてマンフレッド・ラグースと共に記念撮影。

どうすれば釣れる?

サーモンは最初に見たとおり、顎の曲がった雄だった。重さが14.5kgもあった。この魚がティルセットを独占し、他のサーモンを追い払っていたのか、それもまた想像の域を出ない。更にフライの落ち方がこれ程明暗を分けることも魚に聞かなければ判らない。しかしそう考えた方が、今後の釣り方にとってきっとプラスになるだろう。

この年の終わりにイギリスの雑誌が、「何故我々だけが行く先々で、大物ばかり桁外れに釣るのか」と言った特集を組んだ。挙げられた理由を多い順に並べると、使っているフライの能力が違う、フラットビーム・シューティングラインという新兵器を駆使している、長い特殊なリーダーに秘密がある、そして最後は釣りをしている時間が長いと言うことになった。我々は概ねそのように見られているらしい。

しかし、「フライを投げる場所と、その落ち方が違うため」そう言ったのは、今までにたった2人のギリーしかいなかった。

我々にとって1997年のノルウェーは、この時点で事実上終わった。50年ぶりの洪水と100年ぶりの猛暑、そして60年ぶりの渇水。人の一生の間に一度あるかどうかの異常気象が、こともあろうか同じ年に三つも重なったのだ。誰がこんなことを想像できよう。ところがその最悪と言える年に、私は幸運にも18.1kgと14.5kgという大物を釣り上げることが出来た。それ以来数多くの魚を釣り上げたが、未だにそのサイズを超える魚に巡り会っていない。
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この年の9月、スウェーデンのリバー・エムへ2回目の旅をするに当たって、我々は前年と同じように8月の最後をガウラで過ごした。その時のガウラは夏の終わりとは思えない残暑に見舞われ、水位は余りの渇水のため計測不能。魚の姿が全く見えないためダイバーが潜ったところ、サーモンは瀬の中の大石の隙間に頭を突っ込んで暑さを避けていたという。

8月31日、 最終日の夕方になって漸く降り出した雨は、次第に豪雨となり、川は2メートルの増水を記録。翌9月1日、禁漁になったガウラを大量のサーモンとシートラウトが遡上した。まるで釣り人をあざ笑うかのように・・・。

正に、 That's salmon fishing!

-- つづく --
2003年03月09日  沢田 賢一郎