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洪水と日照り  --第14話--
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7月の後半ともなると午前0時から3時までの間、夜の帳が下りる。但し闇夜にはならないから、明かりなしでフライを結ぶのが可能だ。

夜明け

川幅が広くなるにつれ、対岸が遠ざかっていく。私は川底にあるなるべく大きな岩を探し、その上に乗って投げていた。岩の上に乗ることによって少しでも水面が低くなると、その分だけバックキャストを上空に向けて投げやすくなる。バックキャストが高くなれば、前方の水面に向けて高い所からラインを投げ下ろし、フライを水面に叩きつけることが可能だ。それが出来ればフライは着水と同時に生き生きと泳ぎ出す。

流心を横切って落下したラインが流され、フライを下流に引っ張ってしまうまでの時間、長くて5秒くらいだが、その間、私は誰も釣ったことのない流心の向こう側に潜んでいる魚を釣ることができる。

対岸際は距離があることも手伝って暗かった。私はその石積みにある一際大きな岩に向けてラインを伸ばし、その下の暗がりに2インチのスティングレーを投げ込んだ。

突然、その岩の下にもの凄い水柱が立った。それは暗がりが明るく見えるほど大きく、滝のように真っ白い水柱だった。私は一瞬、その岩が崩落したのかと思った。何事が起きたのかと見とれていた私の腕に、次の瞬間電流が走った。持っていたロッドが何かに叩き落とされそうになった。

全て束の間の出来事だった。その水柱は、魚が私のフライに襲いかかったために出来たこと。そしてその魚が私のロッドを引ったくりそうになったこと。それを知った時、私は川の中に呆然と立ち尽くしていた。

過ぎ去ってみると、夢か幻を見たような気がした。しかしこれは悪夢ではない。それどころかいよいよ長年の夢が叶うしるしに思えてきて、私は再び対岸に向けてフライを投げ始めた。
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眠い身体に緊張を強いるため、夜の釣りは昼間の倍以上疲れる。

時計の針は午前1時を指していた。辛うじて糸を結べるだけの明るさが残っていたが、対岸側はすっかり暗くなり、距離感が乏しくなってきた。振り向くと、ハットの前でマリアンが起こした焚き火が、赤々と松明のように燃えていた。

理由は判らないが、ここヴィンスネスで私はそれまでこの時間帯に魚を釣ったことがなかった。勿論、当たりを感じたことも無かった。私は開きまで釣り終えるとハットに戻って少し休むことにした。温かいコーヒーが疲れと眠気を拭い去ってくれる。
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プールによって、何故か魚の気配が消える時間帯に差があるような気がする。

私は暗い川を見渡しながら、何故この時間帯に釣れないのか考えていた。午前0時には良く釣っている。その次は決まって3時半なのだ。この午前1時から3時までの間がさっぱり釣れない。私はその答えを出せるほど、まだここで釣りをした経験がないから、理由を考えても所詮は空想の域を出ない。恐らく最大の理由は、その時間に余り真剣に釣りをしていないからに違いない。その証拠に、今もこうしてコーヒーを飲みながら釣れない理由を考えている。

午前3時になった。僅かながら明るさが戻ってきた。夜明けが近い。気温が急に下がってきたが、暖を取るための薪が乏しくなってきたので、マリアンは車に戻り、私は最後の一口を飲み干すとプールの流れ込みに向かって歩き出した。

水際に着いた時には更に明るくなっていた。夜が終わろうとしている。私はその夜のために結んでいたスティングレーを外し、昼用のローズマリーをリーダーの先にセットした。透明度が高く、流れが大人しくなっていることを考え、少し小さめの1-1/4インチを選んだ。

フライを結び終えると、周囲は更に明るくなっていた。私は流れ込みの脇から釣り下った。投げる毎に対岸の岩が良く見えるようになる。私はその水際すれすれにフライを叩き込んでいった。

待ち伏せ

夜中に水柱を上げた魚はフライに襲いかかったが、触っただけで、完全に捕らえることが出来なかった。何故失敗したのか。私は休んでいる間もそのことが頭から離れなかった。

私が出した結論は、彼は突然頭上に現れたフライに慌てて飛び着いたため、捕まえ損なったのではないかと言うことだった。流心の向こう側に落ちたフライが魅力的な姿をしているのは、着水してから数秒間しかない。その間に魚に確実にフライを捕まえさせるには、彼らに前もって飛びかかる準備をして貰う必要がある。つまり待ち伏せして貰うのだ。

待ち構えている所にフライが現れれば、捕まえるのに2秒もあれば充分だろう。私は自分の出したその結論に従い、フライを投げながらたった一つのことだけを考えていた。着水したフライが3秒以上まともに泳ぐよう、フライを対岸すれすれに正確に叩き込むこと。そしてその動作を規則正しいリズムでもって続けることだった。そうすれば魚は次第に自分の方に近づいて来るフライに気が付き、目の前に来たら飛びかかろうと待ち構えるに違いない。

20分程経過して、私は夜中に水柱の上がった大岩の前に差し掛かった。ここに来るまでミスもなく、フライを正確に投げ続けてきたから、もしあの魚が未だ同じ場所に居たら、きっと待ち構えているに違いない。私はそう確信していたから、喉がからからになるほど緊張してフライを投げ込んだ。
 
岩の手前、真下、そして後ろ側と、凡そ2m置きにフライを投げたが、何事も起こらなかった。もうあの岩の下に居ないのだろうか。私は大きく深呼吸すると、気を取り直してそのまま下流に向けてフライを投げ続けた。

3時半になった。夜がすっかり明けて、対岸の岩肌がはっきりと見えるようになった。私は相変わらず距離も時間も一定の間隔を保ってフライを投げ続けていた。
今こうして投げているフライを、どのくらい下流に居る魚まで見ているだろう。

私は3年前、始めてガウラに来た時に見た不思議な魚のことを思いだしていた。あの魚は私が投げた10番のフライを10m近く離れた場所で発見し、目の前に流れて来るのを待ち構えていた。あの時の状況が当たり前だとすると、魚は私のフライに飛びつく前に、既に5回近くフライを見ていることになる。
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バックキャストを高く上げ、35m先の水面に向かってフライを投げ込む。

爆発

水柱の上がった場所から30mほど下った所に更に大きな岩が水面から顔をだしている。水中の様子は判らないが、その辺りに居着く魚が多い。私はその岩の前に差し掛かって、足下の川底に大きく平らな石を発見した。その石の上は川底から30cm近く高い。私はその誂えたようなプラットフォームの上に乗ってフライを投げた。投げておいて、直ぐにロッドを持ち上げラインを張った。

その瞬間、ラインの先で爆発が起きた。夜中と違ってはっきり見えたから、岸の岩が落下したのではないことは確かだった。大きな音と共に水面から立った水柱は、まるで人間が飛び込んだ時のようだった。

続いて目の前のリールがけたたましい音を立てて逆転を始めた。5mほどのラインが飛び出したところでリールの音は静かになったが、その後もゆっくりと回転を続けている。引き出されたラインが流心を横切っているものだから、それに掛かる水の抵抗だけでラインが引き出されていく。

私はロッドを下流に向けると、回っているリールを静かに押さえ、思い切りラインを張った。下流に伸びていたラインが対岸側に向いた時、ドスーン、ドスーンと言った大きく重い震動が両手に伝わってきた。それまで本当に魚かどうか一抹の不安があったが、フライが掛かっているのは間違いなく魚だった。
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フライが着水するのと同時にロッドを高く差し上げ、ラインを張る。緊張の瞬間だ。

私はロッドを上に向け、ゆっくりとリールを巻いた。ラインの先が水面を切り裂きながら上流に向かっていく。やがて今しがた水柱の上がった対岸の岩に向いたところで止まった。

私は静かにラインを縮め、強く引きつけた。まさかラインが岩に挟まったのでは。そう思えるほど、水面に突き刺さったラインは動かなかったが、暫くすると静かに上流に向かって動き始めた。

ラインの角度からして、魚は対岸に沿って泳いでいた。リールをゆっくり逆転させながら、上流側の大岩、夜中に水柱の上がった場所まで上ると、急に反転して下流に走った。

その魚は長時間に亘って重く力強いファイトを続けた。私は落ち着いたところで岸に上がり、後ろの車にいるマリアンを呼んだ。ファイトの後半から、我々はそれをビデオカメラに収めることができた。

澄み切った水の中から現れたサーモンは11kgの雌だった。大きな口の右の角には1-1/4インチのローズマリーがしっかり張り付いていた。この魚が夜中にスティングレーに襲いかかり、水柱を上げた魚と同じものかどうか、それは判らない。何れにせよ、私はこの出来事によって流心の向こう側、それも対岸すれすれに潜んでいる魚も、条件が良ければ釣り上げられる自信がついた。

しかしその確率を上げるには、フライラインを更に改良することが絶対条件であることも判った。距離が遠くなっても、フライから先に水面に落とせるくらいにならないと、流心の向こう側を釣ることはできない。

この時使用したインターミディエイトのフライラインは、遠くまで飛ばすのに特に不満はなかったが、少しばかり改造しただけではターン性能の不足を解消するまでに至らなかった。

それでもどのように改良すればよいのか、大凡のめどが立ったことは大きな収穫だった。誰だってあれほど凄まじい水柱と共に見事なサーモンが釣れたら、完全なフライラインを作ろうと思うに決まっている。
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パワーウェットビデオ、PART 7に収録した11kgのサーモン。強い魚だった。

予知

徹夜で釣り続けるとさすがに疲れる。我々はホテルに帰って朝食を済ますと、そのまま眠り込んでしまった。ここ数日同じようなパターンが続いている。

暑さと眩しさで目を覚ますと正午を過ぎていた。空は相変わらず抜けるように青く、乾ききった熱風が吹いていた。あれほど沢山あった山の雪が遂に消えてしまった。水位は毎日少しずつだが下がり続けている。雨は何時降るのだろう。もしも暫く先まで降らなかったら、川は一体どうなるだろうか。

今の時点で川の状況は決して悪くない。ローウォーターには違いないが、酷い渇水と言うほどでもない。しかし相変わらずガウラ全域に亘って魚が少なく、釣果は芳しくない状態が続いていた。

私は何となく不吉な予感がしてきた。スティールヘッドを釣り、サクラマスを追い求める内に感じるようになったのだが、これまで海から遡上して来る魚の予知能力に驚かされることが多々あった。
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左岸から釣っていたため、口の右側のコーナーにローズマリーが張り付いていた。

サクラマス、スティールヘッド、そしていま私が待ち構えているアトランティック・サーモンとシートラウトは世界の鮭鱒類の頂点に位する魚たちだ。勿論フライフィッシングで釣る魚としてだが。彼らは産卵期の半年以上も前から河川に遡上する。

海から河川に遡上した後で、もし最悪の状態に遭遇したら、産卵期まで安全に生きることができない。そのため彼らの予知能力が発達し、危険が迫っていると川に遡上しない。

彼らにとって最悪の状況とは大洪水と大渇水だ。今年の春、サーモンの遡上が酷く悪かった。そして歴史的な大洪水が発生した。いま洪水が収まって美しい川になったのにサーモンの遡上が悪い。いま川に上がるとろくなことがないと言うことをサーモンが知っているからではないか。

ではその酷い状態とは何だろう。もう一度洪水が起こるのか、それともこのままとんでも無い渇水に見舞われるのか。可能性は後者の方だろう。もしサーモンがそれを予知しているなら、この時期に遡上してこないのは頷ける。

-- つづく --
2003年03月02日  沢田 賢一郎